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赤速の部屋


[1] 睡蓮
詩人:赤速 [投票][編集]

鉛筆と小刀とスケッチブックとを持って、
杜の公園を目指します。
絶望に暮れる朝は、背広と制服の流れに逆らい泳ぎます。
僕自身の制服は箪笥の中で眠ってもらいました。
かすかな罪悪感とわずかな開放感を息継ぎするのです。

 意味のない毎日に辟易していた。
 目的もなく通う学校。煩わしい人とのつき合い。
 自由が欲しかった。独りで生きたかった。
 でも、そうなるための努力はしなかった。勇気がなかった。
 それならいっそ、死んでしまおうか。
 辛いことは、もういらない。
 楽しいことも、なくていい。
 なにも考えずに楽になりたい。
 自殺するなら母のように飛んでみようか。
 鳥になれると錯覚し、ベランダから飛び立った母。
 僕の鼓膜に焼きついて消えない、彼女の悲鳴。
 それは墜落の失望? 或いは解放の歓喜?
 地面に叩きつけられるまで刹那、何を考え墜ちたのか。

鉛筆と小刀とスケッチブックとを持って、
杜の公園へと泳ぎつきました。
暖かな陽射しが緑を映し、人々は微笑んで過ごします。
僕と云えば、片隅のベンチで疎外感を感じながら、
美しい光景をがむしゃらにスケッチするのです。

 5Bの鉛筆が僕の心の出力装置だった。
 公園の木々や、行き交う人々を画用紙に描きとめる。
 僕の心を織りまぜながら描いてゆく。
 この時間だけは、僕が僕でいられると信じられた。
 やわらかな芯の鉛筆はすぐに減ってしまう。
 折り畳みの小さなナイフで、それを削り出す。
 なんてことはない作業だが、その日はぼんやりしていた。
 剃刀のような薄い刃が、ザクリと指先に食い込んだ。
 どす黒い血が溢れだす。
 スローモーションで伝い流れる鮮血。
 ぱっくりと割れた傷口がズキンズキンと燃えるよう。
 嗚呼、なんという確かな痛みだろう。
 僕は今、生きている。
 僕の血と僕の命。当たり前の事実に心が揺れた。
 なぜだか分からない。生きていける。そんな気がした。
 傷口を舐めると鉄の味がした。

鉛筆と小刀とスケッチブックとを持って、
杜の公園で溺れていました。
溺れながらも、流れる血の温かを確かに感じました。
遙か上の水面には、まだ戻れませんが、
水の底から見上げると、太陽の光がキラキラと揺らめくのです。

2011/02/06 (Sun)

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