詩人:善田 真琴
高き山に登るは一握の好事家のみにて、労多きに報いて得るものも多く、生涯忘れ難き糧ともなるらん。低き山には万人が登れども骨折り少なき代わりに益少なくして、世事に戻れば日々に疎くなりゆくものなり。
人を導かんと志す程の者は高き山に踏み入るべきに、仏門目指して僧籍得んには甚だ厳しき修行ありと言へども、晴れて僧侶となりて後は曇りて俗人と異ならぬ似非仏者が殆どなり。
鎌倉以来、高き山を削り地均しして平地を歩くが如き易行を継ぐ現今の葬式仏教は、本来の仏陀の教へとは天地の差異どころか換骨奪胎、羊頭狗肉の別物なり。衆生救うべき身が衆生に寄生し、仏陀の語らぬ事を教へと称して語るは詐欺と一毛も異ならず。
肉食妻帯は俗人のよくする所、仏陀は何れの場所より修行の一歩を踏み出されしか、仏者は須く初心に立ち返りて初歩よりやり直すべきなり。
俗人に
何を教えん
俗物の
乞食坊主が
したり顔して