詩人:あいく
「ぬ」と「め」と「ね」と「わ」の区別がつかなかったのが小学生の何年生の時だったとか。そんな状態の児童を書道教室に通わせた親御さんの教育方針のちぐはぐさが未だ持って理解不能でわあるが。それが【あいく】さん自身の御両親だったとあらば理解の可否に係らずその影響を被る事わ否応なしと言えましょう。年齢的な修学度合と言うものを示す例をもう一つ挙げるならば、数字の1から100までを"数字"として把握したのも小学生に上がってからであったと思われまっする。恐らくそれまでわ”数字”でわなく”文字”として「1」〜「12」までをとらえており、概ねその役割わ時計の時間を見る事と、TVのチャンネルに関する意思疎通に用いられていたはず。余談になりますが当時わ【TVのリモコン】などと言うものが無く、TVのチャンネルわガチャガチャとやたら硬いダイヤル式のものを回して変えていたとか。こんな話が懐かしいと思える諸兄に至ってわその年齢が(少なくとも)〜歳を下らないだろうと容易に想像出来るものであります。
少しお話しがそれましたが、年齢相応の学習レベルがどのくらいなものか?これについてわ当然に時代背景に影響される部分も少なからずと言えるでしょう。ですが前述での内容を鑑みるに【あいく】さんの(その当時の)学習レベルが「良好である」と言うに憚られるのわ避けられないところでおます。前もってお断りするべきわ今回の話題においての本旨が、決して当時の家庭環境や両親の教育方針の不備を非難しつつ諸兄の同情を誘うものでわ無く。或わ軽いシンパ心をくすぐる為のものでわ無い、と言う事を念押ししておくます。これらの事柄が一つの事実としある、と言う事を前置きとするものなのですとろいやー。
と、"前置き"やら"お断り"やら、やたらに持って回って言い連ねて結局の所わ文字数制限に引っかかります。そんで大仰に述べた「本旨」やらに辿り着いていない始末。「あるある的な共感」や「他人事だからこその同情」なんかをかり立てるのであれば、それこそ安いエッセイ漫画などにお任せするものですが、そこにすら至らぬこのエッセイ(?)、、、明日わどっちだ!?
、、、次回わ出来れば、、、このつづき、、、かも・・・
←TO BE CONTINUED。。。
『指先の僕ら』