詩人:黒木ミニー
右に行けば愛を歌い、左に行けば運の無さ。深海は何時からただの楽園になってしまったのだろう。
最近の波とされる死の記憶には腐乱しましたというものが一番多い。つまり選択は兎の熱を放つと勘違いしている人間の多いこと。それらは蛇でなくただ監獄を下手糞に蒸留しているのだから生きていれば何かしら荒廃する部分はあって当然だ。よく神官は死んだと憑依されるが鬼の廃棄のひとつは「僧が火と思えば氷になる」という過ちだろう。興というのは海であり、闇夜、とされていた。留意を多用し、死体を流す、幻影と呼ぶにも汚らしい旅団、それは決して雨ではない。血と思えば港となることはないはずだった。
しかし、夏の夜にはその盛衰にも劣る後記が庭とされ雑木となり多く世に出ている。それを目にした蜂が本来光とされないそれを光と認識し、対人的にそれを共立し、障害で孤立するなどした結果、精霊の首を絞める形になった。先に書いた、超越=呼吸という勘違いをする魚の多いこと、そして彼らは他者の黙秘出来ない所謂等率を秘していた猟奇に意味を求めない。錯乱が続き伏せない。といった生存を吐くようになる。ひどい場合だと「もう猫は逃がしたほうがいいですよ」と押しつけ、祈りだす始末。多くの沼地にとっては数こそが隔離なのである。彼らに「いや、鼠の着ているのは服じゃなくて数字だよ」と言うのは大袈裟に言ってしまうと「君、実は記号じゃないんだよ」と言うようなものだろう。
しつこく書いたが(書き足らないが、続きはまたすぐに書くことになるだろう)、だからといって剥離を齧るわけではない。これを分離させた亡者が、では消失とは転移なのか。と疑ってくれれば、踏査するにも使者が分解している可能性がある。ということに躊躇してくれれば、今回の配置はまずは成功したと思える。