詩人:Cong | [投票][編集] |
マラガの港が小さく見えてくる頃には、お人形をなくした妹のフデアの機嫌もすっかり良くなり、僕の不安も和らいだ。まだ50マイル以上先はあるであろう、そのアンダルシアの街を模る棘のような高層ビルや、それを囲むように塗られた民家の赤い色に僕はこれまで渡り歩いた国々の様子を辿ろうとしたが途中で諦めた。チュニスの港を出て今日まで2週間はかかった気がする。
おじさんは僕とフデアの為にたくさんの人達にお願い事をしてくれた。
おかげで僕とフデアはこうしていられるのだ。
僕には帰れる家がない。ここまでの記憶も所々で途切れている。父さんの声はイスラエルとの国境ゲートで人垣に引き剥がされ「母さんたちを守れ!」と聞いたきりだ。母さんとは後から追いかけてくれると約束をして声を上げ泣きながはチュニジアで別れた。だから、もう眠る前のひとときに母さんが本を読んでくれることもないし、父さんから貰ったサッカーボールを置いてきてしまったけれど、きっともう返ってこないだろう。母さんを守る!という父さんとの約束も守れなかったよ。
だから、フデアだけは何としても僕が守らなければならない。
大きな爆発音や、誰かの悲鳴、血と灰で汚れて動かない大人たち。置き去りにされた小さい子、砂埃の中、母さんの温かい手、石の床の上で眠った冷たい夜。2つ上のアスランは元気にしているだろうか。またサッカーを教えてほしい。全てが意識しなくても尖った破片のように突き刺さって取れない。そして、今は何よりも母さんに会いたい。父さんに会いたい。
おじさんはいい人だけれども、いつも暗い顔をしているし、誰かに殴られているところを見たこともある。おじさんにはどこかへ逃げてほしいし、僕らはふたりでも大丈夫だ。だって、母さんが地中海を渡れば安心できると言っていたから。アンダルシアは僕とフデアの旅の終着点なのだ。
母さんを待って、父さんと合流できたらどこでもいい。サッカーボールはまたどこかで拾おう。フデアにも新しいお人形をあげればきっと前のように笑ってくれるはず。また4人で暮らすんだ。家族4人で。
赤い屋根の家でなくてもいい。爆発音や、誰の悲鳴も聞かずに済む温かい夜を4人で迎えられるのであれば。
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車のタイヤがアスファルトを舐める音が響くほど壁の薄い
粗雑な建物に、慣れた手順で彼が私を閉じ込めた時、もう、
だいたいのことはどうでも良くなっていた。
関節の太い男の指が粗暴にブラウスの裾を広げ、手のひらで私の
乳房を掴んだ。
ここまでたった2週間での出来事だ。
先週の水曜日には私は彼が望む通りの約束をし、
先々週の水曜日には、確かLINEの交換をしたばかりだった。
それまでに彼が私の顔を見てくれたことがあっただろうか。
毎朝、全身鏡で眺める制服姿の自分の顔は、まるでラベルをペ
タリと貼り付けた人工的な表情をしていてQRコードを読み込めば
きっと値段が表示されるだろうな、なんて考える。
この取り繕った笑顔はおいくら?
このあと支払うだろう、ご休憩料金はおいくら?
あなたは私の顔を見ていない。
なぜこんな馬鹿な男と私はこんな場所にいるのだろう。
男が息を荒げ必死に何かに耐えている間、
ずっと私の意識は部屋の外のさらに外。
欧州を旅する列車のことを空想していると時間はあっという間。
インド洋の向こうはもう夏なのかな。
無遠慮な日本車の警笛が耳を劈く。空想がパンッと弾ける。
粘着質な触れられ方に希死念慮という言葉を連想する。
梅雨の空気は大嫌いだ。
雨が降り始めたのか。
新宿の曇天に雨を喜ぶアスファルトの拍手喝采でまた夏が遠のく。
私も濡らしてよ。QRコードを剥がしてよ。
夏が遠くなる。
今日の私は可愛いですか。
傘も持っていないなんて、なんて惨めな彼。
私はスマホで読み込まれるQRコード。
梅雨よ。これを剥がせよ、QRコード。
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あなたがどう思っているかは別にして
嘘にはどんな甘いシロップを垂らしても
苦いのだということ
思想はあなたの納得の行くなぞなぞの
解き方だということ
数学は誰でも同じ理解ができる記号である
ということ
あなたが口にする愛は嘘であるということ
だって、愛が二つあるなんて、私には
頭の九つある龍を信じろという事よりも
信じられない事ですもの。
あなたがどう考えるにしても、
それは瑣末なことであり、
メイプルシロップのかかったパンケーキは
大変おいしゅうございます。
あなたが嘘を甘くしてくださるのなら、
それだけでも私はあなたを愛するということ
あなたがどう思っているかは別にしても
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瓶詰めの「指」を見たことはありますか
夢見ることさえも叶わぬのなら
いっそ殺してしまえと、兄は言いました
神の裁定はわかりません
私を殺せと吐き捨てた兄の舌鋒の先には
私より若い死が待っていました
届いた新品の車椅子 これは慈愛ですか 自愛ですか
愚かなる娘の死に損なった姿を あなたはどうお思いですか
そう尋ねる間もなく 薄幸なお母さまは先に逝かれてしまいました
私は何を望むでもなく ただ生きております
私から全てを奪った人よ あなたは今
また別の女性を腕にお抱えでございましょうか
私を愛してくれた人は今生の儚さを語るように
この世の人ではなくなりました
私は瓶詰めの「指」は見たことはありません
望みの無い 母譲りで薄幸な私の幽かな
欲望をお許しください
人の目を盗んで私は彼の左腕の文字の入った皮膚を切り取り
ハンカチーフに包み、ポケットにしまいました
そして 私の部屋に帰った時密かにそれをミネラルウォーターと
ともに飲み込みました
あの時のように彼が私の中に入っていく感覚がしました
新しい車椅子の調子がおかしいのでしょうか
カタカタと勝手にあらぬ方向へ転がって行きます
これ以上、私の為に善も偽善も犠牲も慈悲も必要ございません
私の満たされぬ最期の渇望をお赦しください
これが兄の望んだ 或るべき裁定 そして私の裁定
控えめに 慎ましく お別れを
私の体内に愛の証のある内に
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今となっては自分でも不気味で仕方ないのですが、
本当にあなたを愛していたようです。
何も知らぬ親族からは「恥を知れ!」と激しく罵られました。
稚拙な色恋に現を抜かし、一時でも夢を見た私が悪いのです。
これっぽっちも恥辱も惨めさもございません。
そのような安い言葉で形容できる感情は湧き出てまいりません。
なにゆえ、私を弄びになられたのでしょう。私が小娘だったからでしょうか。
自ら言うことではありませんが、私は決して物分かりの悪い子供ではありません。あなた様の言われたことが真実であれば、縁もしがらみもなんとでもできましょう。
逢瀬を重ね、熟成した私の純粋な真の愛を蹂躙された口惜しさ、これは如何程の重みになりますか。したためた便箋数グラムにしかなりませんか。
想い人のあなたが他の女性と懇ろになったと見聞きする度にいたたまれず、私は尋常ではいられなくなります。
いつの間にやら私の気が狂ってしまったのかもしれません。
あなたがお離れになられてからいくつもの嫌いなものが増えました。
あなたの私物は全て侍女に処分させました。あなたの愛したレコードも傷を疼かせるだけになるかもしれません。
ですが、ご安心ください。私は慎ましやかにあなた様の幸を祈るのみです。私怨晴らしなど毛頭考えておりません。ただ、ひもすがら袖を濡らすのみ。己の愚かさを呪いましょう。
それになにより、やはり、記憶の中のあなたはやはり愛おしいのです。
あなたの全ての言葉が私を呪縛から解き放つ、そんな魔法の力を持った言葉でした。
あなたとの文通は本当に楽しかったのです。
先日、車で神戸の街を走りました。三宮というところは良いところですね。戯れに少し抜け出して見たら、あなたが話していたフランス料理店を見つけ、その場で泣き崩れてしまいました。
あなたを嬉々と東京へ見送った無知な私よさようなら。
只管、過去を愛します。それだけに縋ります。そして、いずれ他愛の無い日常で埋めてしまうのです。
私は今後も胸中にあるあなたを愛し続けることでしょう。そして、あなたを翻弄する女を恨み申し上げます。
ご不快でしょうか、例えご不快でもしのんでいただきます。これが捨てられ、忘れられゆく惨めな女の幽かな嫌がらせと思し召し、ぜひお聞き入れのほどお願い申し上げます。
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夏の涼みに、社叢、砕石道、椋の馨り、
水辺に浸ける白い踝
川面の水黽に気を取られ
奥手な椿の刺繍をあしらった白いワンピースの裾
強かに濡らす
微かに響みた微笑みと飛沫の音が相まって
君の機嫌が良い事に倖せを感じる
寒蝉が日暮が謳う万葉集
私と君の名も糺ノ神にまかせて
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かってうれしい、なかよしこよし
まけてはにかむ、なかよしこよし
ゆびきりかわす、なかよしこよし
きってもきれぬ、なかよしこよし
てさきからまる、なかよしこよし
てもとでくるう、なかよしこよし
やがてねじれる、なかよしこよし
にくしうらめし、なかよしこよし
ねたみそねみも、なかよしこよし
くいをのこさぬ、なかよしこよし
うめるわすれる、なかよしこよし
うしろのしょうめん だあれ?
うしろめたいあなた だあれ?
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過去数十年に一度の酷暑を経験した関東地方
茹だる暑さにこの国の人たちがうんざりしていた夏
スポーツドリンクの人工甘味料の単一な甘さに飽きるのと同様に
ませた仕草や声や接触 それらを演じて見せてくる人たちにいよいよ鼻白んで来た頃
僕は知りもしない過去数十年の酷暑よりもっと暑く 刺激的で
卸したての本の一頁の香りのような
荒涼とした大地に染む湧き水のような
なんとも名状し難い爽快な衝動を鼻先から指先へ迸るのを感じた
煩い目覚ましの音も 無駄に広大でめぼしい建物ひとつ無い通学路も
汗にまみれて溜息溢れる朝練も 欠伸のリレーの続く四限目も
この淡い予感に満たされて 爾来唐突に色鮮やかになった
僕の日常を劇的に変えたその第六感的とも言える発明のエッセンスは
時に30インチもない距離に接近して 時にすっかり靄のカーテンの裏側へと姿をくらます
そんな高層ビルの赤色灯の明滅にも似た存在に
僕は恍惚とし 正体を失い 翻弄される
これを幸福と言うのか
これが煩悶と言うものか
なんだか申し訳ない気持ちになるけれど
文月のそよ風に乗せられたその予感こそが本物で
これまでは児戯であり 擬似であり
紺碧のインクをこぼした夏の空によって齎された
これがきっと僕の初恋だ