詩人:善田 真琴 | [投票][得票][編集] |
手に触れているものは
現在はしていても
本物か否か確証がない。
蜜柑を渡され
それは林檎という名称だと
教えられた者が
最期までその誤りに
気付かなければ
それで何の支障もない。
仏教やキリスト教
イスラム教やヒンズー教等
すべての宗教は
群盲象を撫でるの類で、
一つのものを
違う角度から
見ているだけだから、
人種は違っても
人間である事には
変わりがないのと同じ。
どんなに彩り好く
栄養価のある弁当でも
自ら収まった
弁当箱という容器を
越える事は出来ない。
眼で見たから
確実ではなく、
心で感じたから
完璧でもない。
ぼくに触れても
構わないけど、
きみが触れたものは
ぼくではなくきみだった。
間違い、
場違い、
勘違い、
思い違い、
擦れ違いとか
誤解建てのビルに
ぼくらは住んでいる、
澄んでませんけど。