詩人:善田 真琴 | [投票][得票][編集] |
今は昔、とある古刹の何某の和尚、庭木の枝に張り渡せる蜘蛛の巣に一匹の蝶々捕らへられて、羽根をはたはた逃れむと必死なるを、あはれと覚して救けむと手伸ばせしところ、四歳ばかりなる稚児の出で来て、口を尖らせ不満気に「蜘蛛があはれなり。な逃がしそ」とぞ言ひける。「何故かくやは言ふ」と不審に思へば問ひけるに、「蝶を逃がさば、蜘蛛の子の腹を空かして死ぬらむが、あはれなり」と言ひ終らぬ先に稚児泣き出すやうなり。「嗚呼、よしよし」とかしら撫でつつ、和尚こころ和みて口元に自ずから笑みの零れたり。
仏法に於て差別は元より区別も是なく、みな等しく仏性備はれるものなれば、美醜は須臾の間、中空に漂へる雲の如しと思ひ至りて「これは長じては一方ならぬ聖となる子なめり」と頼もしく覚へたりとて語り伝へたるとかや。
八雲立つ
いつも心は
澄み渡る
いとけなき身に
苦もなかりせば
(詠み人知らず)
【現代語訳】
蜘蛛のように糸を張り巡らせて何かを企む意図を持たない稚き子供の身の上に、暗雲の陰が射すような苦しみがなければ、八雲立つ出雲ではないが、何時も心は澄み渡るだろうに
【脚注】
「八雲立つ」は「いづも(出雲)」の枕詞。「出雲」と「何時も」で掛詞。「いと(けなき)」と「(蜘蛛の)糸」、「意図」が掛詞。同じく「蜘蛛」「雲」「苦も」が相互に掛かる。八雲の「八」は蜘蛛の八脚を暗喩。