メモをつけよ。メモすることが癖になると、「感じる」ことも癖になる。と故野村克也氏の言葉です。仮に、例え、1から100の間にある100個の整数…ではなく、それ以上にある気づきと可能性をメモは引き出してくれそうです。話それますが、肌や右脳が感じたことが言葉になる過程(間)にある、なにか壁のような、関所のようなもの。ここの滞在時間は作品を“作る事”に置いての醍醐味(の一つ)だと思ってます。“ポンッ”と出るのも楽しいですが。私はまず読むことから…と思ってます。そして時間があれば無意識が感じる事をしに足を運びます。メモを胸ポケットに。
平気な顔も見せずに。いいですね。人間の“自然体”なんて言葉も有機物の戯言のよう。そこから三連へ、自然に抗うのとは少し違う、風さんへの擬人。最後まで読んだら、ただただ切ない。オレンジの百合かぁ…
君とは、恋愛相手?好敵手?尊敬する人?友?自分は強い者を探して彷徨う格闘漫画に出てきそうなキャラを思いました。勝手にすみません。
「たより」の続きでしょうか。流転。書こう、描こうと膨張を感じながらその実、自分という質量は変わっていない…そんな事を思いました。いちいち変な解釈してすみません。さくさくという響き。自分は枕越しに伝わる自身の鼓動を連想します。横たわっているくせに、向かっている。音は乾きか寒さを表していてどうも穏やかじゃない…そんなことも…。しかしがらんどうじゃなくて満開なのですね。私はできればそうありたいと思います。今は。いちいち暴走してすみません。
創作意欲、頭で広がりを見せながらも、一枚がコンパクトに折られているかのような詩の形が面白いと思いました。「貝がいいか」は、一瞬回文かと読み直してしまったり、イカが入ってると海を思い出したり。においを嗅ぐのは子どもみたいなのに、一万円を思うのはやっぱり大人だなと笑ったり。「いい」も心地良く感じました。感想長々と失礼しました。