名付けられない、名付けたくない想いや気持ちや間柄があって…でも大切で…それでいい、それがいいですよね…。改めてそう思わせていただいて、慎んで哀華さんに「ありがとう。」を言わせていただきたいです。
最後の「人間てやつあ」のリフレインが胸に刺さる。ある種の諦観が芽生えて、自己愛が普遍化された末の、人間存在一般に対する穏やかで優しい眼差しが感じられる。この作品も哀々しい泣き笑いのユーモアが漂う哀華らしい作品のひとつだと思う。
人権問題に熱心な共産党や社民党などの市議会議員にメールを送った。学校側には手紙を送ったり、電話で校長を始め担任とも話をした。結果的に全部無駄に終わり、万策尽きて、後は探偵事務所を使ってでも相手のシッポを掴んでやろうかとも考えた。しかし、万一それが上手くいって彼女の居場所を確保出来たとしても、彼女は孤立するだろう。彼女はそれに一人で耐えられるだろうか?彼女に尋ねると「もういいよ」と短く応えた。期待させた分、彼女の絶望の淵を更に深くしただけだった。その後、僕は疾しさから暫らく彼女と連絡を取れなかった。
当時はタイトルの見当さえ付かなかった。改めて読んでみると「死んでしまえバカ」(自責の念)あるいは「死んでしまえば…か」(自省・自嘲的独白)に採れる。いずれも想像の域を出ない。彼女のタイトルにはキーボードのミスタッチによる偶然の産物と思われるものが幾つかある。例えば今、思い浮かぶ作品を挙げれば「教えtte」だが、本人に尋ねたら「打ち間違えたけど、直すの面倒臭かったから」と応えていた。しかし、それは改めて説明するのが面倒臭かっただけで、彼女は偶然の発見を「面白い」と感じ、敢えて意図的に選択したのだと思われる。
タイトルが美しい。予定調和的な物語の書き手を運命と呼ぶのではない。人生に於いて、その構想とシナリオを描くのは、結局は演者以外にはいない。人は見ている方向にハンドルをきる。例えそれが崖っ淵であったとしても。
その頃、ぼくは紙粘土でウサギやフクロウなど動物のダルマさんを作る事にハマっていた。「なんか作ってあげるよ、何がいい?」と尋ねると「黒いうさぎ」と彼女は応えた。テレビで見たうさぎの話を頻りにしていたのを覚えている。黒いうさぎは、何度か他の作品にも登場する。自己投影だったのか、彼女には強い思い入れがあったのだろう。結局、黒いうさぎのダルマさんは作れなかったし、彼女の手に渡ることもなかった。最後の2行にある「あの人」は当時付き合っていた彼氏の事ではないと思う。勿論、ぼくの事でもない。
15年近くもかけて少しずつ息を吹き込んで膨らませてきた風船が弾けた瞬間。「貴方は苦しんで死んだと人から聞いています」その絶望の深さを推し量る術を僕は知らない。母親の話によれば、哀華の父親は今も存命である。しかし、彼女の葬儀には参列しなかったと聞いている。
薄っぺらで水に溶けるような紙屑みたいな存在なら、何故みんなが君亡き後ずっと今に至るまで、その抜けた穴を埋め切れずにいるんだろう。いなくなる事で、みんなの胸の中に永遠に居場所を確保し続ける。反則ワザに近い。
「決戦の日」の朝、電話で話した。まさに母親と二人、敵陣に乗り込む直前。「ひたすら頭を下げて謝れ」と。闘いが終わった後、折り返し電話がきた。「今日はお母さんががんばってくれた。これから焼き肉食べに行く」と晴れやかな空気さえ伝わってきた。
そこに居場所を確保出来ていれば、結果は変わっていたかも知れない。「怒らないんだね?」と言うから「失うものの大きさを一番知っているのはきみじゃないか」と応えた。終わった事を責めても仕方がない。過ちを悔やんでいるのは、痛いほど分かっていた。大人たちのやる事は、いつも子供の心を踏み躙る。あれほど警告しても、結果を見るまでは動こうとはしない。取り返しのつかない過ちを犯したのは寧ろ大人たちの方だった。そして誰一人責任を負わなかった。一人の生徒を殺したくせに。