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善田 真琴の日記

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詩人名 : 善田 真琴
詩人ID : maczenda

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死人の献立
2012/10/02(Tue)

ノダさんが三度目の内閣改造。

正直、ノダさんには多少の期待はしていた。彼は本来、民主党にいるべき人ではない、それは左巻きの連中を「啓蒙」し、内部から変革する、謂わば「獅子身中の虫」作戦だと思っていた。だから、国防・防衛政策に無知な田中真紀子さんの旦那を防衛大臣に就任させたり、左翼バリバリの輿石さんを幹事長にしたりと、その人事も「教育」の一環だと考えようとしてきた。

しかし、それはやはり淡い気体のように儚く消えた。

国の役目で最も大切なのは、国土の保全と国民の生命・財産を守ることである筈だ。国土の問題は、色々語るべき事が多すぎて今は取り敢えず脇に置いておく。

民主党政権になって以来3年間、今度の内閣改造で拉致問題担当大臣は7人目らしい。前大臣の松原仁さんは、拉致議員連盟の当初からのメンバーであり、拉致問題に熱心に取り組む姿勢が評価され、拉致家族からの信頼も厚かった。その松原さんをノダさんは「更迭」した。今回の改造内閣では留任者が多いにも拘らずだ。

ノダさんは、松原さんが外遊中に人権保護法案の閣議決定をした。松原さんがそれに反対の立場を取っていたからだ。閣議決定は基本的に内閣全会一致が原則だから、ノダさんは故意に松原さんが不在の時を狙った。姑息で汚ないやり方だ。

また、松原さんは北への経済制裁を維持・継続する考えで、それを拉致被害者家族会も支持しているが、外務省は、拉致協議に北が応じれば経済制裁を解くように内閣に裏で働きかけているようだ。

そんな事情を勘案して、今度の内閣改造で松原さんが拉致担当大臣を外されるのではないか、と僕は秘かに危惧し、注視していた。そしてそれは昨日、残念ながら現実のものになった。

始めに戻るが、国家の一番目の役割は、国土と国民を守る事の筈だ。ノダさんにとって、拉致被害者は国民ではない事が、今度の松原大臣「解任」劇で、はっきりと判った。ノダさんは国民の生命より、自分の党の融和と保身を優先させたのだ。

早くも「想い出作り内閣」とマスコミが揶揄しているようだが、そんな連中を政権に付けようと国民を煽りミスリードしたのは一体誰だったのか。僕らは目醒めていなければならない。今や、マスコミが発表する客観的数字、例えば内閣支持率などでさえも疑ってかかった方が得策かも知れない。いずれにしろ、こんな政権は一日も早く下野してもらわなければならない。


死人の献立を考える前に、まず人を死なせない努力をするべきだ。増税や年金・医療・介護は大事な問題だが、それ以前に今の民主党からは、国民の命を守ろうとする気概や意思が1ミリも感じ取れない。

善田 真琴

きみへ
2012/09/25(Tue)

ずっと気になっていましたが、このまま有耶無耶になりそうなので、書かせて頂きます。

滋賀県の大津市でいじめを苦に自死した中学生の一件が全国的な話題になりました。

ぼくは、自ら死を選ぶくらいなら何で格闘技でも習って、いじめチームのリーダーをフルボッコにしなかったのか、と単純に思います。いじめは学校を卒業し社会に出て就職しても存在するし、寧ろ大人の世界の方がより緻密・陰湿で更に過激です。場合によっては家庭にすらありますから、逃げ場はないと言ってもいい。ならば、自分が強くなるしかないのです。

しかし、それは第三者が言う台詞です。ぼくの職場の部長が「いじめられる側にも問題がある」と言いました。それも一理あるとぼくは思います。ですが、それは第三者としてなら、一つの意見として認められる余地があるとしても、同じ事を加害者本人が言うとしたら、どうでしょう?反感を招くだけで、自己弁護としても正当性はないと判断されるのではないでしょうか。

「つまらんって言われたならもっとすごいの作ってやろうとか思わないの」という、ある人へのあなたの書き込みを読みました。あなたの論理は、上記のぼくの会社の部長の言った事と同じです。今回のあなたの言動は上の「いじめ」問題とは異なりますが、加害者本人が「お前にも問題がある。何が悪い」と開き直っているように、ぼくの眼には映ります。

他人の作品を「つまらない」と断ずるなら、どこがどう詰まらないのかを具体的に指摘した上ならば建設的な意見として受け止め方があったと思います。しかし、それはありませんでした。さらに他人の作品批判をするのならば、相手を不快にさせることなく、素直に受け止めて貰える様な適切な言葉の選択と、相手と自分との関係性や距離感が事前に構築されているか否かの配慮が必要ではないでしょうか。偉そうに書いていますが、ぼくも相手との距離感を読み違えて、少しキツい事を言って相手を激怒させ、謝罪した事があります。幸い相手が優しい人だったので、今も交流が続いています。

だから、反省の上で書きますが、他人を恣意的に怒らせておいて「きみは激昂して終わるだろうけど」とか、何処に問題があるか具体的な指摘もせず「向上心がない」と決め付けるのは、如何なものかと思います。

ぼくは自分を詩人だと思った事がかつて一度もありませんが、あなたが「一詩人として」と詩人を自認するのであれば、ご自分の真意と言葉を少しでも近付ける努力を惜しまないで頂きたいと切に望みます。

最後に、あなたは彼に謝るべきです。このままけじめも付けず有耶無耶にするなど、詩人として以前に、まともな人間としてあり得ない。


追伸
ぼくと真摯に語りたいと、もしお望みになるなら、感想掲示板をオープンにして下さい。でなければフェアでないとぼくは思います。陰でコソコソするのがぼくは嫌いなのです。

善田 真琴

自慢話
2012/09/23(Sun)

他人の自慢話に堪えられない人は、無駄に不愉快になるだけなので、以下は読まない方がいいです。自分の好奇心は自己責任でコントロールして下さい。

僕は身体能力的には特に人より優れた所はない。覚えている高校時代の記録としては、100mは12.7秒、走り幅跳びが5m78cmで、走力も跳躍力もアベレージの域を出ない。

しかし、どうも反射神経は平均値を超えているらしい。

大学生の時、僕は春&夏休みは大阪の堺で引っ越しのアルバイトをしていた。

その作業中、荷物を持って向かってくるバイト仲間を避けようとして、僕はトラックの荷台から後向きにコンクリートの地面に落下した。

一瞬の出来事だったが、テレビ・ドラマのワンシーンの様にスローモーションで周りの風景が視界に映った。

我に返ると、僕は柔道の受け身の形で地面に横たわっていた。直ぐに立ち上がって、腕や肘など点検してみるが、擦り傷ひとつなく、打ち身の痛みすら感じなかった。

「だ、大丈夫か?」と荷台の下にいた運転手が心配そうに聞くのに対して「大丈夫です」と答えて、僕は仕事に戻った。「凄いな、兄ちゃん」という声を背中で聞いた。

僕は中・高校時代、柔道部だった。だから、これは反射神経というより後天的な学習によって獲得した運動能力に過ぎない。

しかし、「もしかして、自分は人より反射神経が優れているのでは?」と僕が自惚れるようになったのは、以下のような出来事があったからだ。

職場で、缶コーヒーを買って休憩室を出る時、いきなりドアが開いて同僚とぶつかりそうになり、僕の右手から缶コーヒーが落ちかけた。僕は落下地点から20cmくらいの所で、いったん自分の手から離れた缶コーヒーを咄嗟に掴んだ。

「凄いな、おまえ…」
間近で見ていた同僚が、驚いた顔をしていた。

同じような表情を高2の体育の時間に見た事があるのを思い出した。

うちのクラスにはバレーボール部のレギュラーが4人いた。その時の体育の種目も試合形式のバレーボールだった。

相手チームのYにトスが上がった時、僕はたまたまネット際にいた。彼は僕より10cmは背が高い。何より彼はバレー部のエース・スパイカーだ。「止めれるワケがない」と思いながら、彼に少し遅れて僕は両腕を伸ばして思いっきりジャンプした。その両腕に一瞬、バシッ!と強烈な衝撃を感じた。その直後、ギャラリーから歓声が沸き挙がった。

僕がブロックしたボールは相手コート内にワン・バウンドして体育館の舞台の縁に足をブラブラさせながら座って観戦していた、クラスの連中を目がけて飛んでいったのだ。スパイクしたYが、驚いた顔で「今のは凄い」とネットの下から握手を求めてきた。まぐれ当たりなのに。

しかし、これには続きがある。僕がバックに下がった時、味方のレシーバーが相手のスパイクを弾き、ボールがコート外に飛んで行くのを僕はダメ元で追った。

ボールを見ずに落下地点を予測して、そこを目指して全力で走った。僕の背中を追い越すボールの気配を感じて、右手を懸命に伸ばしたが、「届かない!」と思う一方で「あと一歩」と更に右足を大きく踏み出した。

すると、伸ばした右手にボールの方から近づいて来た。僕はそれを思いっきり頭越しに背中へ振り切った。

ボールはコート内には戻らず、ラリーの継続には繋がらなかったが、体育館の壁際で立ち上がりながら、僕は再びギャラリーがどよめくのを聞いた。

小6の時にも同じような場面があった。

野球の試合中、レフトの守備についた僕の方向に大飛球が上がった。打った瞬間に「抜かれた」と思ったが、その時も、ボールを見ずに全力で落下地点と思しき辺りを目指して必死で走った。「この辺りだろ」と振り返り見上げた瞬間、ボールが視界を一瞬掠めたあと、「ポーン!」と間抜けな音を立てて僕の頭に当たって外野を点々と転がっていった。

守備が終わりベンチに戻った時、僕は拍手と笑い声で迎えられた。恥ずかしがる僕を「あんな大きなフライに追いついただけでも凄いよ」と友達が慰めてくれた。

過ぎた日々を振り返れば「無理だとあきらめた時、それは不可能に変わる」と体感したのは、無理を承知で一所懸命にボールを捕ろうとして失敗した、小6の時の経験が最初だったと思う。

これを書き出す前、シャワーを浴びていた。固形の石鹸を取ろうとして、手が滑って床に落ちる寸前に危うく掴み直した。やっぱ俺の反射神経は尋常じゃない(笑)

にしてもスケールの小さい話ばかりで恐縮至極。


閑話休題
(話題変えるが)

バレーボールと言えば(話、変わっとらんがな)ちょっと前に電車内で耳にした女子高生の会話を。

ね、ね、
オリンピック見てる?

うん、見てるよ?

女子の
バレーボーラーて
スゴいよね?

………。



(なんだよ、
バレーボーラーって。
僕には新しすぎる)

善田 真琴

照レパシー
2012/09/20(Thu)


役目を終えた人は
微粒子になって
風や雲や光に紛れて
母なる自然に
溶け込んでいる。

離れていても
じっと凝視めていると
やがて相手が
「ん?」と顔を向ける。

それは皆が
時空間を超えて
どこかで繋がっていて
元々は、
全部の一部である証拠。

伝わらないとしたら
溶け込む時間か量が
まだ足りないだけかも
知れない。


「こっち見んな」

心を元の自分に
見透かされているようで、
妙に照れるから
強がったり
笑いで
誤魔化したりするけど。


気付いてないみたい。
だから言うけど
多分、
昔、ぼくはきみだった。


善田 真琴

ぼくという女の子
2012/09/19(Wed)


生きているなら
帰っておいで

自分の非力が
哀しくなるから
見ないようにしてたんだ

知ってるよ
行き場なく
歩道橋から
下を見てたこと

きらきら輝いて
どきどきすることも
あったよね
うつむいて
はにかむ姿が
目に浮かぶ

そっちに行ったら
行き違いになりそう

だから

生きていたらば
きみがこっちに
帰っておいで

ぼくって
言っちゃう
女の子




閑話休題
(とは言え)

ぼくらは日々、時々刻々と少しずつ死んでいる。死は悲しい事だが、特別な事ではない。明日、ぼくが生きている保障はないし、死は万人に等しく一度限りだ。人が亡くなれば、ぼくは泣くだろうが、それは残された自分自身のために流す涙であって、亡くなった人たちには苦しみや哀しみなど最早ないとぼくは信じている。


雨降るが如くに泣き
雷神さながらに怒り
風吹く様に微笑んで

天人同根。
それが天然自然。

善田 真琴

コイケエイコー
2012/09/11(Tue)

久し振りに男のレシピ。

豆腐があったので、トーフチャンプルーを作った。基本的な作り方は野菜炒めと同じ。それに、豆腐とコンビーフを投入して炒める。

野菜はキャベツやモヤシなど、豆腐を含めてコストパフォーマンスが高く、カロリーは低くヘルシーで、底々旨い。コンビーフの代わりにツナ缶でもいいし、安い豚バラ肉を使ってもイケる。

あと、豚の三枚肉を味噌・みりん・砂糖で炒めたものを作って置くと便利。独身男子の家にみりんは普通無いから、砂糖だけでも構わない。それをおにぎりに入れて海苔で巻いて食べると、その味に絶対ハマる。その「油味噌」は冷蔵庫で保存すれば、夏場でも肉が傷まず1ヶ月くらいは平気で保つ。おにぎりだけでなく、和風パスタや野菜炒めなど幅広く使えて重宝する。

以上。なんだこれ。


閑話休題。

ラジオを聴いていて、つい笑ってしまった小ネタを。

ニワトリは
本気出せば
「小池栄子」と言えそう。
(コケコッコ〜、
て言えるか、アホっ!)



折角だから
上には並ぶべくもないが
ぼくの即席ネタを。

おまいさん、長唄とか
やってなさるのかい?

はぁ。

そりゃまた
風流なことで。

三味線も弾きやす。

ほぅ、で
それはいつ頃から?

へい、
ガキ(楽器)の頃からで。



しからば、今宵は
この辺にて御免つかまつる

善田 真琴

民族DNA
2012/09/09(Sun)

「トモダチ作戦」の一環で被災者を捜索中、その米軍ヘリの女性パイロットはビルの屋上に「SOS」の文字を発見した。近付くと百人単位の人影も見える。

米軍ヘリは下の群衆の動きに細心の注意を払いながら、ゆっくり着陸を試みた。この様な場合、自国の米国も含めて、どこの国の災害地域であれ、救援物資に人々が殺到して来て危険を感じると云う。

しかし、その時は違った。ヘリが無事に着陸すると、リーダー格と思しき中年男性が一人で近付いて来て、被災者の凡その人数を告げた。

それから直ぐに一列に並んで、救援物資のバケツ・リレーが始まった。

全てを配り終える前に、その中年男性が「もう結構です」と唐突に言った。女性パイロットは「まだたくさん残っていますから」と伝えたが、彼は「こちらはこれで充分です。残りは他の被災者に届けて下さい」と、それ以上の受け取りを拒んだと云う。

以上のようなエピソードが洩れ伝わってくるのは、その米軍パイロットが、日本人の被災者たちの態度に何かしら心動かされるものを感じたからだろう。


一方、最近ネットで知ったニュース。

13億の人口を有する隣国の高速道路で、葡萄を満載したトラックが横転した。彼の国の高速道路は、光化学スモッグで視界が狭くなるため、しばしば「高速」道路でなくなるという話は前に聞いたことがある。

その事故の時もスモッグが酷かったのか、低速で走っていたお陰で、トラックの運転手は幸い無事だった。

しかし、事故直後から騒ぎを聞きつけた近隣の人々40人余りが、車やバイク・自転車などで駆け付けて来て、道路に散乱した葡萄に殺到し、警察官や運転手の制止を振り切って葡萄をカゴごと持ち去ったと云う。画像も何枚か見たが、みんな幸せそうな邪気のない笑顔を浮かべながら、ビールケースのようなプラスチック製のカゴを抱えていた。

ブドウって、
甘くて美味しいよね。
(えっ!そっち?)

閑話休題
(どうでもいい話ですが)

橋下さんの「日本維新の会」が正式に発足した。掲げた綱領「維新八策」に道州制がある。

道州制の具体的な中身は判らないが、四捨五入して言えば、日本列島を「県」より広い幾つかのブロックに分けて地域主権を持たせ、国家の権能を軍事や外交に絞ろうという趣旨だと思う。

以上に間違いがなければ、それは江戸期の幕藩体制とさほど変わらないのではないか。「維新」とは、言うまでもなく、明治維新を意識したものの筈だが、行政システムとしては、明治以前の江戸時代に逆行しようという政治活動に見える。

井伊大老が、天皇の認可を経ずに諸外国と不平等条約を締結した事を切っ掛けに、攘夷運動が燎原の火の如く広がり、その熱で幕府は焼き尽くされ、幕藩体制は終焉を迎えた。

歴史に学ぶならば、国(幕府)は地域主権を有するブロックの連合体(薩長土肥)によって崩壊する。時系列で言うならば、橋下さんが将来導入しようとしている道州制(廃県置藩つまり廃藩置県の真逆)が終わりを告げた暁にやっと「維新」が訪れる事になる。

余りの倒錯ぶりに、書いているうちに自分の頭もコングロマリットしてこんがらがってきた。

要するに、道州制を推し進めれば、加盟各国の利害対立で組織としては崩壊へと向かいつつある、現在のEUと同じ運命を日本は辿るだろうと思う。

善田 真琴

江戸回帰。
2012/09/08(Sat)

日本は食糧の自給率を100%に上げる努力をし、尖閣諸島や日本海、紀伊半島及び四国沖に手付かずで眠ったままの、イラクに匹敵すると云われる石油やメタンハイドレートの埋蔵資源を発掘すれば、「鎖国」をしても自給自足でやってゆける。何故、中世・古代並みの民度しか持たないアルヨ国やスミダ国を相手にする必要があるのか理解出来ない。市場が必要ならば、親日的なインドやインドネシア、ブラジルなどを相手にすればいい。永年に渡って莫大な経済援助をしても、恩を仇で返す国々を相手にする謂われなど1ミリもない。(ちなみに、インド・インドネシア・ブラジルを足した人口は、中韓の人口の合計に、ほぼ匹敵する)

日本のこの20年にも及ぶ経済不況の原因は、政治の無能・無策に尽きる。日銀がお札を大量に発行すれば、円高は円安に転化し、輸出企業に競争力がつき、企業の海外移転を防ぐ事で産業空洞化を回避出来、法人税歳入が増え、失業率は下がる。米国やアルヨ国は自国通貨を乱発してドル安や元安を維持し輸出強化している。円高なのは市場に円の流通量が少ないためだ。日本だけがお札を刷ってはいけないという理由はない。

しかし、日銀がお札を刷っても借りる人がいなければ意味がない。投資をしようにも、この不景気では一般企業は二の足を踏む。だから国が率先して公共投資をやって経済に浮上の切っ掛けと勢いと与えなければならない。民主党が再三やった、無駄を省くための事業仕分けなど、経済不況下では最もやってはいけない愚行だと断言出来る。

東北の被災地では行政職員が足りないという。津波が公務員だけを避けて通るわけもなく、たくさんの職員が犠牲になったし、未曾有の大災害で猫の手も借りたい状況が今も続いているはずだ。中央では公務員削減問題が取り沙汰されているが、公務員も生活者である以上、その職を失う不安や所得を削られれば、消費を控えようという心理が働き、デフレ圧力の要因になる。

東北の被災地では生活手段が失われた。ならば、現地で臨時職員を大量に雇えばいい。それは税金を投入する事になるが、決して無駄にはならない。一時的にしろ、一定の収入が得られれば、それは生活消費に回るから、支出した税金は市場に流れたあと再び税金として国庫に返って来るからだ。数年臨時職員として働きながら、被災者は本来就きたい仕事を探せばいい。

デフレ不況下で「コンクリートから人へ」などと言って公共投資を悪玉扱いするのは、民主党が不勉強な輩の集合体だからだ。

不景気は定期的に訪れる。3年あまりのサイクルでやってくる在庫不況と呼ばれる「キチン循環」、10年ごとの設備投資不況の「ジュグラー循環」、20年ごとの建築不況「クズネッツ循環」、そして1サイクル50年の技術革新の際に起こる「コンドラチェフ循環」。

四捨五入して言えば、現在は戦後の復興期から3回目の「クズネッツ循環期」と1960年代の高度経済成長期から半世紀経った「コンドラチェフ循環期」にあたる。

前回のコンドラチェフ循環の技術革新は、アポロ11号などで人類が初めて月面に降り立った宇宙技術がその一つだったと思う。それから約50年、新しい技術革新が何なのか、今のぼくには判らないが、国内の至る所の道路・設備・港湾・橋梁などが耐用年数を超えて老朽化しているのは確かだし、その上に来るべき大地震に備えて一般家屋や工場、学校・庁舎などの公共施設の耐震・免震化は焦眉の急だ。人を守るために「コンクリート」がいま必要なのだ。民主党に集う烏合の衆には、それが全く解っていない。

ならば、その財源は?という話になるが、国債発行で何の問題もない。

マスコミは「将来にそのツケを回すのは無責任」と書きたてるが、公共投資で作った港湾・道路・ダム・橋梁などのインフラは将来の人達も利用するわけだから、受益者負担は当然のことである。

あるいは、財政健全化しなければ日本はデフォルトに陥ると経済アナリストと称する人達が国民を脅す。
日本は一千兆円超の負債を抱えていると言われるが、その95%は国が国民から借りているお金であって、国民は債権者であっても債務者ではない。だから、保有する国債を日本国民(銀行や個人)が一斉に売り抜けをしなければ、国債の暴落もデフォルトも有り得ない。万一、国債が暴落し始めたら、日銀が買い上げれば済む話だ。

話を公共投資に戻すが、国が公共投資をすると言っても、日本では隣国のように国有企業がダムを作るわけではない。ダムひとつ作るのに、コンクリートや鉄筋・材木などの資材業や建設資材を運ぶ運送業、実際に建築に当たる建設業、それらを相手にする飲食店やコンビニ、ホテル・旅館などのサービス業など、それらに携わるのは一般の企業や人々であり、公共投資に費やした税金は結局は国民の懐に入り、それが消費されて、いずれ国庫に戻って来るのだ。公共投資で潤った企業は、新たな設備投資に着手し、雇用機会が増える結果、失業率が下がる。雇用が安定すれば、消費支出が増加し企業は利益が上がるから、さらなる設備投資や事業拡張に繋がりデフレは解消へと向かう。


スーパーに行くとあまりのデフレぶりにびっくりする。

豆腐一丁 35円
キャベツ一玉 98円
発泡酒500ml 125円

一般庶民にとって、短期的・近視眼的に見れば、物価が安いのは有り難い。けれども、これでは企業は儲けが少ないから、雇用情勢は何時までたっても好転せず、国民所得が増えない結果、将来への不安から消費支出も減少し、デフレ・スパイラルから日本は永久に脱却できない。その上、消費増税なんぞで追い討ちをかければ、自殺者は年間4万人に達するのではないかと、ぼくは危惧している。橋本政権の時に消費税を3%から5%に上げた翌年の1998年から我が国の自殺者は3万人の大台に乗り、そのまま高止まりしている。野田総理は不退転の決意で消費増税法案を成立させたが、自らの経済政策の誤りを橋本元総理のした様に、いずれ国民に謝罪する事になるかも知れない。しかし、失われた命は二度と取り戻す事は出来ない。

一部に、「GDPなんて増やさなくても今の日本は世界的に見ても充分豊かだから、このレベルを維持すればいいじゃないか」と言う人達もいるが、彼らは80年代後半に始まるバブル景気と90年代初頭のバブル崩壊を経験した世代だ。大量生産・大量消費に明け暮れ拝金主義に我を忘れて、贅沢・豪奢な夢が覚めた時には、依って立つべき精神的なバック・ボーンが自分たちには無い事に気付いた。それが宗教なのか、人生哲学なのか判らないが、金が人を幸せにする訳ではないという事だけは理解したのだろう。それが「GDPなんて…」という無責任な発言に繋がる。余談だが、オウム真理教に多くのインテリが入会したのは、バブル崩壊と共に価値観を見失って精神的支柱をオウムに求めた結果ではないか、とぼくは考えている。

国民総生産と国民総所得、国民総支出は額面で同じになる。GDPが現状のままでいいという事は、国民の賃金(国民総所得)が増えなくてもいいという事を意味し、実際にはこの20年間で日本の国民総所得は維持どころか逆に減っている。因みに記憶だけで書くので、正確ではないが、米国の経済規模は過去20年間で確か約3倍になり、一党独裁のアルヨ国は13倍になっている筈だ。繰り返すけれども、この日本の経済的惨状は、金融・財政政策の誤謬、つまり政治の無能・無策が主たる要因だと断言していい。

どうやら、衆議院選挙が近いらしい。今秋か来春か判らないが、民主党は勿論、躍進が囁かれる維新の会など論外である。橋下さんのカリスマ性と即断即決のスピード感は魅力的だが、維新の会の候補者は民主党以上に即席の素人集団になるはずだ。3年前と同じようにマスコミに騙され踊らされて「いっぺんやらせてみたら」的な安直な無責任さで政党や候補者を選ぶ事が、この国を滅びに導き、その報いを受けるのは我々自身である事を忘れてはいけない。誰がやっても、どの政党が政権をとっても同じという事は絶対にない。

善田 真琴

いる、いる(笑)
2012/09/04(Tue)

ケジメなく
一人よがりで
仲直り
いきなり肩を
組んでくる奴



社交的で、「立て板に水」のように弁舌さわやかな人の方が、話下手で「横板に雨垂れ」の朴訥な人より営業職には向いていると一般には考えられがちだが、実は逆らしい。

会社の出入りの業者にやたら明るく、愛想のいい奴がいた。初対面の名刺交換のあと、翌日にはもう「○Хちゃん、今度飲み行こうよ」と態度が馴々しい。「おいおい、俺らツレか?」と内心思いつつ、大人の対応で同僚と三人で週末に飲んだ。彼の話は面白く、頭が良い男だというのは直ぐに判った。しかし、同僚がトイレに立つと、彼は直ぐに同僚の噂話を始めた。1週間足らずだというのに、彼は同僚の出身大学や独身である事など、個人的な情報を色々と知っていた。「コイツ、俺の事もあれこれ調べたんだろうな」と思うと良い気持ちはしなかった。その後、彼と飲みに行く事はなかった。

「立て板」の人が相手だと、無駄が無くスピーディーに話が進むが、滑らか過ぎて、騙されないようにと顧客は警戒する。

一方、「横板」の人を相手にすると、最初は要領を得ない説明にイライラさせられるが、何だか温かく信頼出来る気がする。

軽くて調子が良いだけの、ケジメを付けない人は、仕事云々以前に人間として信用出来ない。

善田 真琴

It depends on killing time.
2012/08/31(Fri)

 本来、人間に最低限不可欠なもの、例えば衣食住に必要以上に拘泥するのは、精神性が低く卑しい証拠という抜きがたい妄念がぼくにはある。文学や音楽などの芸術は本来人間の生存に致命的な意味では寄与していない。つまり、人はそれらがなくても生きてはゆける。

  しかし無駄こそが、人が生きてく意味に他ならない。なぜなら、みんな終わりを前提として生を始めることを運命付けられているし、人は皆、執行日を告げられない死刑囚と同じだから。

 人が生きる意味は、如何に有意義に暇を潰すかにかかっている、と思ったり思わなかったり、かったりぃ。


善田 真琴

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