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His story.
2012/04/04(Wed) 幕末の黒船来航以来、日本の危機感は暗雲の如く募っていった。鎖国政策を採っていたとは言え、それでもお隣の大国中国が英国を始めとする西欧列強に喰い物にされてゆく様子は伝わってくる。 太平洋戦争当時、アジアで植民地化されてなかったのは、タイと日本だけだった。ベトナム・カンボジア・ラオスはフランスの、ビルマ・インド・マレーシア、シンガポールは英国の、インドネシアはオランダの、フィリピンは米国のそれぞれ植民地だった。タイは利害対立を避けるための緩衝地帯として残されたに過ぎないから、弱肉強食の趨勢の中、自力で独立を保っていたのは日本しかなかった。 アヘン戦争以降、疲弊の極みだった中国を睨んで、北方の白熊が次を狙っていた。 シベリアを東へ東へ進んだロシアはベーリング海峡を渡り、北米に達するが、米国はアラスカをロシアから買い取ることで平和裡に事を治めた。そこでロシアは来た道を引き返し中国大陸に戻るが、南を見ると冬でも港として使えそうな入江がある。ここからロシアの南進政策が始まる。ロシアは勝手に中国東北部に鉄道を敷設し、いずれは朝鮮半島南端まで伸長する計画だった。そこまで来れば、あとは海を渡り日本へ行くしかない。 中国や朝鮮半島を押さえられると日本の存立も危なくなる。だから日露戦争(1904年)も自衛目的に始めた事であり、アジアの隣国を守るためでもあった。 後年、中国の辛亥革命(1911年)で御輿に担がれることになる孫文は、日露戦争で日本が勝利した時、中東にいて現地の人に「お前は日本人か?あのロシアを倒すなんて日本は凄いな」と話しかけられそうだ。余談になるが、孫文は日本で学び、結婚の披露宴を日本で開くほどの親日家だった。 多少横道に逸れたが、以上のような世界の流れの中で、ロシア(ソ連)の手を通じて赤化していった中国のように、朝鮮半島はいずれロシアの支配下に陥るか、共産主義化するかしかなかった。現に敗戦により日本が退くと、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮半島は南北に分断され、北はソ連・中国ラインの影響を受け続けることになった。 米国には先見の明がなかった。中国や朝鮮半島から日本を排除したことで後年、米国は日本が負っていた荷物を自ら背負うことになる。もし日本が負けてなければ、米国は朝鮮戦争やベトナム戦争で共産主義との泥沼の闘いに填り込まずに済んだだろう。そして朝鮮半島はふたつの国家に別れることもなかったかも知れない。 では、日本の朝鮮半島統治はどうだったのか。 欧米流の植民地政策であれば、単一の作物、例えば綿花・砂糖・ゴム・珈琲などに作付けを一本化し、現地住民を奴隷のように扱い搾取する。教育を施し余計な知識を与えると反抗するので、愚民化政策を採るのが普通である。日本はそんな事はしなかった。名前すらなかった農奴に姓名と戸籍を与えた。当時、朝鮮半島には小学校が200校しか無かったが、5000校に増やした。京城大学は日本の大阪大学や名古屋大学より先に作られている。港湾や橋梁、ダムなどインフラを整備した。北に建設された当時の水力発電所は、今も現役で稼働しているらしい。 李氏朝鮮時代、半島の人口は右肩下がりに減少していたが、日本統治の35年間に1300万の人口が2400万に、24才だった平均寿命が45才に伸びた。植民地として搾取し、安い労賃で激しい労働を課していたら、人口も平均寿命も下がるはずだが、寧ろ倍増に近い。これは、食糧生産性が向上したので、餓死者が少なくなり、衛生教育や医療受診機会の増加などで、傷病死が減った結果として、人口と平均寿命が着実に伸びたのである。この事実だけからしても、日本が朝鮮半島を植民地化しなかった事の証明になると思う。 半島の人々は「七奪」と言って、日本が彼らから7つのものを奪ったと主張する。例えばその筆頭に挙げられるのが、姓名や言語である。 創氏改名法を読めば、姓名を奪ったというのは、言い掛かりである事は直ぐに判明する。コリアの人々には元々、ファミリーネームがなく、結婚しても同一の姓を名乗らない。政府が行政サービスを提供しょうとする時、それでは困る。判りやすく例えると、子供手当てを支給しようとする場合、一戸当たりの子供の人数で計算されるので、夫婦が「別姓」だとダブる可能性があり、都合が悪い。だから、「創氏」とはファミリーネームを届けて下さい、という話に過ぎない。半年の周知期間を設けて、届け出がない場合はどちらか一方の本貫(金とか李など日本人が姓だと思っているもの)を戸籍登録します、という制度であって、日本名を名乗る事は飽くまでもオプションであり、強制ではない。選択肢として用意されたのは、コリアの人々が社会活動をする際に、日本名を名乗った方が有利な場合があったからである。 日本名への改名が強制ではなかった証拠に、コリア名のまま陸軍中将になった人や、国会議員になった人もいる。やや話が逸れるが当時、日本在住のコリア系の人々には選挙権があり、逆に朝鮮半島にいた日本人にはそれが無かったという事実を、ぼくは極く最近まで知らなかった。日本国内での選挙ポスターには、コリア系に限らず、日本人の候補者の名前にもハングルの振り仮名が併記されていたらしい。 以上のように、日本はコリアの人たちから名前を奪ってはいない。 それでは言葉についてはどうなのか。 選挙ポスターで少し触れたように、ハングルは禁止するどころか、普通に使われていたし、ハングル語の新聞が弾圧を受ける事もなかった。 それどころか、埃に埋もれ使われなくなっていたハングルを復活させたのは実は日本である。 李氏朝鮮末期の時代にはハングルは教養のある人間が使うものではないとされていた。実際、ハングル語で作品を書いた文学者が処刑されたりしていた。日本でも、奈良平安期まで貴族階級の教養は漢籍であり、日記なども漢文で書かれていた。漢字は真名と言い、ひらがなは仮名、つまり「仮」の表記方法だった。ハングルは日本における平仮名よりも低い扱いを受けていたのだろう。藤原道長は源氏物語の愛読者だったが、大っぴらに読むのではなく隠れファンだった。それでも日本では、平仮名が「弾圧」を受ける事はなかった。 日本は忘れ去られていたハングルを教育現場に取り入れ、教科書に日本語と共に併記し、教えた。 調べれば直ぐに判る嘘をなぜコリアの人々が声高に叫ぶのか、ぼくには理解出来ない。 あと、朝鮮半島の人々は、日本は「強制連行」をしたと非難する。これは「軍事徴用」の事で、コリア系の徴用は、ぼくの記憶によれば、戦争末期の1944年の9月から翌年3月までの半年間、250人前後に過ぎない。しかも、徴用は日本人であれば当然の義務であり、ぼくの祖父も軍事徴用され、サイパンで亡くなった。硫黄島では徴用された15才前後の子供たちが、食料自給のため農作業に従事した。コリア系の人々も、当時は日本人だったのだから、逆に平等に扱われたのだと言っていい。 徴兵に関しても、その義務がなかったコリア系の方からの要求が強かったという説もある。兵隊になれば三度の食事にあり付けるし、給料も貰える。当初は100名募集をかけると1000人単位、1000名には万単位で人が集まったらしい。 以上、褸褸書いてきたように、日本は朝鮮半島に対して、欧米がやった意味での植民地化は行っていない。現在、ハワイを米国の植民地だと非難する人間はいない。統治された側の痛みが判らないわけではないが、嘘に嘘を重ねて歴史を塗り替えるのは、民族としての品位や誇りを毀損する事に繋がる。それは日本も同じで、時代と共に新しい資料が発掘され、闇に葬られていた事実が明らかになるに連れて、自国の歴史も書き換えられ正されていかなければならないと思う。 善田 真琴
ジャパン&コリア合併話
2012/04/02(Mon) いざ国作る李氏朝鮮 (1392年) いや苦難の大韓帝国 (1897年) ぼくは記憶力が弱いので、上のように、自分流の語呂合わせで、無理やり年号を覚えた。 以下、論文ではなく、単なる呟きだから、文献やネットで確認作業をせず、記憶だけを頼りに大まかな事だけを書く。 不景気の最中、倒産目前の小さな会社が、生き残りを賭けて大きな会社に吸収合併を申し出た。大きな会社は、それを受け容れたが、両方の会社に合併反対の社員が少なからずいた。大きな会社では「あんな小さな会社、お荷物になるだけで、うちには何のメリットもない」という声が聞かれた。一方、小さな会社には「うちの社風が完全に失われる」と激しく反対する社員たちがいた。結局は、トップ同士の合意によって、両社の合併が成立した。その後、会社は経営困難に陥り、再び2つの会社に別れた。すると、小さな会社の社員だった人たちが一斉に「あの合併は企業乗っ取りだった」と大声で非難を始めた。大きな会社の社員だった人の中にも「あれだけ激しく怒るのだから彼らの主張は事実なのだろう」と特に考える事もなく沈黙する人や、それを支持する人たちがたくさんいた。 合併と併合は、広辞苑によれば本来、同じ意味なのだが、併合という字面が悪人顔に見えるのは、ぼくの中では「韓国併合」のイメージが大きく作用していると思われる。歴史的事実からすれば、ぼくは「日本と朝鮮半島の合邦」の方が事実を反映した正しいネーミングだと思っている。 日本が一方的に朝鮮半島を侵略し、植民地化したと主張する人、またはそれを信じる人たちは、寧ろコリアの国民を侮辱している事になる。なぜなら、当時の彼らには、自国の国策決定のための「集合的意思」が無かったと主張するのと同じだからだ。半島合邦は国のトップ同士の合意による契約だった。そのトップを選んだのはコリアの人々自身ではないか。 ぼくは民主党を政権交代以前から支持した事がないが、如何に不平不満があっても、一旦決定された事項には国民として当然に従う。現在の日本にも、日米安保条約自体に反対する人はいるが、岸信介個人が勝手にやった事だから、無効だと主張する人はまずいない。しかし韓国では半島合邦当時の首相である李完用は今でも国賊扱いであり、従ってその政治決定も無効と考える人がほとんどだと思われる。 韓国では、李完用に限らず、「親日的」と目されると、何十年後の子孫の財産権さえ否定され、例えば土地&建物などが強制的に没収される。逆に、単なるテロリストや殺人鬼に過ぎない安重根や金九は愛国者や英雄として讃えられる。それが今の韓国の現実である。 日本と朝鮮半島の合邦は、「韓国併合に関する条約」を素直に読めば、韓国の皇帝からの申し出を日本の天皇が受ける、という形式になっているのが判る。当時の韓国の李完用首相にとっては苦渋の決断だったのは間違いない。その条約成立時の騒然とした雰囲気は、1960年の日米安保条約成立当時のそれを彷彿とさせる。前者は軍隊、後者は機動隊に守られながらの条約成立だった。合邦のための条約と安全保障のための条約を同列には語れないが、銃剣で脅しながらの条約締結と言うのはかなり感情的な表現で適当ではない。軍隊が出動しなければ、国民が暴徒化し、無駄に人命が害なわれただろう。当時の韓国には機動隊などというものが存在しないから、危険回避のために日本側の軍隊を活用したのは致し方ない。寧ろ韓国側は、その事に依って、日本を「盾」にし、悪者に仕立てることで、自らを守ったとも言える。首相は国を代表しており、その政治決定に依って一旦成立した事態や事項に、国民が従わないとすれば、それは最早、国家ですらない。 それならば、なぜ当時のコリアの指導者たちは、日本との合邦を望んだのだろうか? ここに一つ参考になる事例がある。ぼくの記憶に間違いなければ、1881年にハワイのカラカウア王が、日本を訪問し明治天皇に拝謁した。日本は明治元年から既に移民を送っていた関係で、ハワイ王国とは親密な交流が続いていた。 カラカウア王の訪日の目的は、日本の連邦国になりたいという申し入れだった。自分の姪の王女と日本の皇族との縁組みも提案した。しかし、明治天皇は米国との対立を恐れて丁重にお断りした。その後、米国は1898年にハワイを併合し、植民地にした。カラカウア王の日本への申し入れは、ハワイの生き残りを賭けた苦渋の決断だった事を歴史が物語っている。 当時、朝鮮半島は、册封体制により清国の実質的な属国だった。朝鮮という国名すら清国に選んで貰い、日本で昭和や平成というような元号も、朝鮮王国は清国のものを使っていた。元号とは時の皇帝が国民や国土だけでなく、時間をも支配するというのが元々の意味だから、朝鮮半島は完全に清国のものだったのである。清国使節団が来る度に朝鮮国王は宮殿を出て迎恩門の前で、三拝九叩頭という儀式で出迎えた。国王自身が跪き、地面に頭を9回こすり付けてお辞儀をしたのだ。朝鮮国王は、清国の使節団より地位が低かったと言っても過言ではない。 日清戦争(1894年)を国会議員の辻本清美が侵略戦争だったと言うのを動画サイトで見て仰天した事がある。日清戦争の講和のための下関条約に一番最初に書かれている項目は、朝鮮の独立である。つまり、最重要課題として朝鮮の独立が挙げられているのであり、日清戦争は、日本が朝鮮のために闘った戦争である事は明白である。その証拠に、最初に書いた「いや苦難の大韓帝国」の1897年、つまり下関条約の2年後に朝鮮は独立国家になり、あの屈辱的な迎恩門を破壊し、その横に独立門を建てた。それは現在もソウル市内にあるが、韓国人のほとんどが、独立門の「独立」を清国からではなく、日本からの独立だと思っているらしい。その門に書かれている「独立門」の文字は、今尚、国賊と貶められているあの李完用首相の筆によるものだと言われている。 朝鮮は日本のお陰で中国の支配下から離れ、晴れて独立国となった。大韓帝国である。当時の日本の正式名称が大日本帝国。まったくのパクりではないか。 ハワイのカラカウア王と同じく、大韓帝国の李完用首相も、自国の生き残りを賭けて、日本を頼ったというのが、歴史的事実だと言える。 李氏朝鮮時代の末期に朝鮮半島を旅したイザベラ・バードという英国女性の「朝鮮紀行」という本を読めば、当時の朝鮮半島の様子を窺い知る事ができる。 それによれば、ソウル市内の民家には窓がなく、土壁に通気孔の丸い穴が開いているだけで、正面の壁を四角く切り取ったのが出入口であるが、そこから人が出てきたので、人が住む家だと判ったとか、人家の前には溝があり、糞尿が垂れ流し状態なので異臭を放っていたなど、人々の貧しい暮らしぶりが知れる。 ちなみに、それより数十年前の幕末の日本では、糞尿は肥料として売り買いの対象とされたため、江戸の町は異臭もなく清潔で、紙屑なども燃料として再利用されたので道にゴミ一つ落ちてなくて、綺麗だったことが、アーネスト・サトウなど外国人の日記に書いてある。 朝鮮半島の人々は、国民の5割を占めたと言われる王侯貴族と両班と呼ばれる官僚階級に搾取され尽くしていた。朝鮮には紙幣がなく、銅銭だけが流通していたが、それも鉛の含有量が多いため粗悪だった。これも両班たちが、差額を懐に収めたからだと言われる。 またソウル市内には個人商店は一軒もなく、商品売買は広場で開かれる青空市で行われ、一般の人々は物々交換が普通だった。 そんな状態だったから、国政を刷新しようとする運動が度々起こり、社会改革を目指す活動家も少なくなかったが、それらは悉く潰され処刑された。 金玉均もその一人。 彼は、明治維新のあとの日本の近代化を理想としてクーデターを起こすが、三日天下に終わり、日本に一旦逃げるが、朝鮮当局と清国の要求により身柄を送還されたあと、八つ裂きにされた上に、バラバラの死体を朝鮮半島各地で晒し者にされた。 名前は忘れたが、韓国南部にある伽耶大学の先生が、「もし日本による韓国併合がなければ、韓国はもっと早く発展しただろう、というのはまったく逆で、日本なしに韓国は独力では国内改革は出来なかっただろう」と述べているが、上に書いたような朝鮮半島の状況を裏打ちする言葉だと思う。 以上、要するに、日本は朝鮮半島を侵略などしていないということだ。 次は、日本は朝鮮半島を植民地にもしていない、ということについて書こうと思う。 善田 真琴
サイレント・マジョルカ島
2012/03/31(Sat) メリットは溶け落ち 大地にメルトダウン デメリットばかりが 火山噴出バラけるの 自分の中の天然自然 寒い心を氷に固め 暑い情には夕立が降る バランスは振り子のよう 迷走するトランス アンビバランスに 平衡感覚ヤジるべぇ 黙り込む一般大衆 人らしき香りも無臭 ナポレオンは島流し 泣いた赤鬼夜にもナイタ 閑話休題 (さはさりながら) 今は、一切テレビとは無縁の生活だが、5or6年くらい前まではたまには観ていた。 それより更に前、テレビの討論番組で「なぜ人を殺してはいけないのか」という男子高校生の問いかけに、並み居る知識人たちが誰一人、明確な答えを提示出来ないのを見て、ぼくもしばし考え込み、うなだれた記憶がある。 「戦争で人をたくさん殺せば、英雄と称えられるのに、なぜ平時の人殺しは処罰されるのか」とか「人殺しがいけないならば、なぜ国家による死刑は是認されるのか」という設問ならば、自分なりに明確に応える自信がある。 しかし、「なぜ人は生きるのか」とか「なぜ人を殺してはいけないのか」などという前提がない無条件の疑問には、そもそも答えなど存在しない事にある時、気付いた。 例えば、ダウンタウンの初期ネタに「クイズです。ここに花があります。さて、どうでしょう?」というのがあった。解答者は答えようがない。前提条件のない設問には正しい答えがないからだ。これが「この花の名前は何ですか?」という問いならば、正しい答えは存在する。その問いには「この花には名前がありますが」という前提条件があるが、省略されて見えないだけだから。 あと、さまぁ〜ずにも似たようなロジックの「キノコの話」というのがあって、大竹さんが「なんでキノコ採りに行くの?」と尋ねると、三村さんがキレ気味に「喰うから!」と応える。これも前提条件がないから、そう答えるしかない。これに「何処に」や「何時」という条件が加われば、正しい答えは存在するはずだ。 このように「なぜ人殺しがいけないのか」とか「なぜ人は生きるのか」と問われたら「いけないものは、いけない」とか「生きてるから生きるのだ」と答えるしかない。いくら考えても、元々そこには理由や答えがないのだ。 「良いものは良い」あるいは「悪いことは悪い」を単語に置き換えるとすれば「正義」という言葉になる。正義は一つしかない。なぜなら、相対的な正義というものには「利害」という別の名前があるからだ。だから正義には前提条件は寧ろ有害となる。つまり、前述してきた事に照らせば、正義にも答えがないということである。従って言い方としては「良いことは良い」か「悪いものは悪い」と表現する他なくなる。 「いけないことは、いけない」と自信を持って日本人が言えなくなったのは、67年前に戦争で負けてからだと思っている。 東京大空襲では一夜にして10万人もの非戦闘員が無差別に殺された。関東の外周から円を描くように爆撃し、中心に人間を集めたあと、焼夷弾で焼き尽くした。米国は日本の家屋が木と紙で出来ていることは充分計算の上だった。だからトドメに通常の爆弾で吹き飛ばすのではなく、焼夷弾で家ごと人間を焼き尽くしたのだ。しかもみんなが寝静まった深夜を見計らって。囲い込む戦法は、「インディアン狩り」という伝統を踏襲した。 米国は日本全国、200箇所で同じことをやって民間人を中心に33万人の命を奪った。神戸では、阪神淡路大震災以上の人々が空襲で命を奪われた。文化都市だから、京都&奈良を爆撃しなかったというのはまったく事実に反する。どちらも空襲を受けたが、たまたま被害が少なくて済んだだけである。 東京を始めとした都市空襲や、合計28万もの被害者を出した広島と長崎への原爆投下も、民間人への無差別な攻撃を禁じた、ハーグ陸戦協定に明確に違反している。それは東京裁判で日本が裁かれた一つの罪状「人道に対する罪」に当たる。米国は自らが同じ罪を犯していながら、一方的に日本を裁いたのである。それは「正義」ではなく米国の単なる「利害」だった。それ以降、日本人は「良いものは良い」あるいは「悪いものは悪い」と言えなくなった。つまり敗戦を契機として、日本には「正義」が無くなってしまったのだ。 それゆえに、昭和天皇ですら「広島と長崎のことは不幸な出来事だったが、致し方なかった」と述べている。大半の国民も日本はかつてアジア諸国を侵略したのだから、仕方がないと思っている。 しかし、それは果たして本当だろうか? 間違った歴史認識は早急に正さなければ、日本嫌いの日本人は更に増え続けてゆくだろう。ぼくは事実を知れば知るほど、あるいは学べば学ぶほど、この国の文化や風土、国民性が好きになる。こんなに美しく品格のある国は他にはないと誇らしくなる。 (一旦CMです) 善田 真琴
母性
2012/03/28(Wed) 喩え話だが、むかしある男と喧嘩の最中に、身内だと思っていた女性に後ろから刺された事がある。その人を守るための闘いだと思っていたので、「え!?」と天地がup side downするくらい驚いた。 当時のぼくは、女性が一つの本質として備えた母性について、考えが及んでいなかった。一般に動物のメスは強いオスに惹かれるが、ツガイになって子供が生まれたあとは、利己的な遺伝子が、血の繋がらないオスより血の繋がりのある子供を尊重させる。それが母性愛の根源であると思う。 日本人には「惻隠の情」という敗者や弱者を思い遣る心情があるが、それは道徳・倫理の後天的学習によるもので、多分に武士道の影響がありそうだ。そのカウンター・パートに当るのが、女性の場合は、小さき者を保護しようとする先天的なもの、つまり本能としての母性愛である。 話を最初に戻せば、ぼくが女性に後ろから刺されたのは、一方的に強いぼくに対して、相手の方が弱く小さく見えたので、「わたしが守ってあげなければ」という母性の「錯覚」による力が働いた結果であり、所謂「判官贔屓」とも出処が違うと、後になって推察し納得できた。 母親はダメな子ほど可愛いと言う。むかし、上の兄姉からはよく「お前は末っ子だから甘やかされてる」と揶揄された。それが本当なら、ぼくはダメな子だったのかも知れない。 善田 真琴
風見鶏
2012/03/25(Sun) 風吹けば 昨日はアチラ 今日はコッコー 空を翔べない 日和見Chicken ニワトリに餌付けされて人間が誘導されるようになったら、この世もお仕舞い。 閑話休題 (それはさておき)。 前日、香港人との国際電話について少し触れた。外国人と書かず、敢えて香港人としたのはワケがある。 その香港人は、「日本人は昔(戦前)、中国人をブタと呼んだ」とぼくに言った。ぼくは日本人を代表して相手に謝った。当時のぼくは自国の歴史に関して全く無知だった。 「あの子のお父さんは、人殺しです」と自衛隊員の子を指差して、クラスの生徒たちに教える先生がいるような、そんな特殊な風土の中でぼくは産まれ育った。学校だけでなく、新聞やテレビ&ラジオを始めとするあらゆるメディアが真実を伝えてはいなかった。それは「洗脳」と呼んでもいい程、悪意に満ち、しかも抜きがたい病理に蝕まれていた。それは今でも変わらない。しかも、それは日本全土に及んでいることを今のぼくは知っている。 あれから自分なりに自国の歴史について調べ学んだ。だから、今ならあの香港人を相手に違う対応をするだろう。 日本は悪い国ではない。 日本人は世界的にも類い稀なる優れた民族だ。 上のように書くと、直ぐに「右翼」のレッテルを貼られる。ならば、外国人に語らせた方が早い。以下にいくつか引用してみる。 「日本のおかげでアジアは独立できました。日本というお母さんは、母胎を壊してまでもアジア諸国という子供を産んでくれました。今日、アジア諸国が欧米と対等に話が出来るのは誰のお陰か。それは自らを殺してまで産んでくれた日本というお母さんがあったからだ」(プラモード・タイ首相) 「あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。それなのに、すべて日本に背負わせ、日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった」(ブン・トモ インドネシア情報相) 「彼ら(日本)は謝罪を必要とする事など我々にはしていない。それゆえ、インドはサンフランシスコ講和条約には参加しない」(ネール・初代インド大統領) 「我々を白人支配から救い出してくれたのは日本だった。我々は大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は忘れない。日本ほどアジアに貢献した国はない。日本ほど誤解を受けている国はない」(バ・モウ ビルマ首相) 「アジアには日本がいた。アラブには日本がいない」(ナセル・エジプト大統領) 黄色人種だけに語らせるのでは片手落ちなので、白人を代表して当時の敵国だった米国人の言葉も見てみる。 「東京裁判は史上最悪の偽善だ。もし米国が同じ立場だったら日本と同じように戦っただろう」(GHQ参謀部長 C・ウイロビー) 「東京裁判は正義ではなく、明らかなリンチだ。私たちアメリカがどうして日本を罰する事ができるのか私は理解できない」(社会学者 H・ミアーズ女史) 尚、東京裁判を主導したGHQのマッカーサー司令官本人が、米議会の外交委員会の席で、日本の戦争行為を安全保障のため、つまり自衛のための戦争だったと証言している。 あの戦争で少なくとも米国相手のそれは、自衛戦争だったと100%断言してもいい。米国の敷いた線路の上を日本は走るしかなかった。それは親密だった日英の間に米国が割って入り、日英同盟を破棄させた辺りから始まっていた。その後の経緯を書いていると、あと1万字くらいあっても足りない。そもそも学校で学ぶのは、ガイダンス・レベルであり、本当に身につき、必要とされる知識は、社会に出て自分で学んだものがほとんどだと個人的には思う。今は、ネットで手軽に調べられるのだから、あとは「フランクリン・ルーズベルト」、「ハル・ノート」あたりをキーワードに検索して調べれば、そこから様々な関連語句へ飛び回るうちに、やがて全貌が見えてくるだろう。 いくつか具体例を挙げれば、ソ連コミンテルンの暗躍や、同盟国ドイツが中国国民党に軍事顧問団を派遣し、武器を密輸していた事実、ルーズベルト大統領が「卑怯」だと断じた真珠湾攻撃の前に「フライング・タイガー」を使った日本本土への宣戦布告なき攻撃を許可する旨の、彼の自筆サイン入り書類の存在など、知らなかった膨大な事実の前に暫し慨嘆のため息をつくことになるだろう。 いずれにしろ当時も、あの戦争は半年、長くても1年しか保たないと、始める前から判っていた。最初から負けることが明らかな戦争を侵略戦争と呼ぶのは、言葉の定義としても可笑しい。それは自滅or自爆戦争と言うべきで、侵略という様な、他者の権利を奪うための積極的な有形力の行使ではない。 喩えば、殺すつもりで本気で大人が自分に向かってきたら、子供は無駄と判っていても必死で抵抗するだろう、結果的に殺されたとしても。それを積極的加害行為と誰が呼べるだろうか。 ハワイ、グァム、フィリピンを植民地にしていた米国に「侵略」という言葉を使う資格はない。否、そもそも米国そのものが、ネイティブ・アメリカンを大量虐殺し、不毛な居留地に彼らを追いやり、その土地を奪い尽くし、その上に国を建ててしまった強盗・強奪国家ではないか。 フィリピンは戦後に独立したが、ハワイを植民地だと現在呼ぶ人はいない。今もグァムの元首は、米国大統領である。要するに「勝てば官軍」で強者の論理が、たとえ真理からほど遠くても、堂々とまかり通るのが世界の現実という事だ。 善田 真琴
古文依存症
2012/03/24(Sat) 似非古文&和歌or短歌ばかり捏造していたら、以前のような口語作文の書き方を忘れてしまった。 話がやや迂回するが、昔、香港人とテキトー英語で6時間あまり国際電話で話したことがある。深夜から出勤間際まで徹夜で喋っていたので、職場に着いてもボ〜ッとしていた。始業まで同僚と他愛ないお喋りをしている時、相手が怪訝な表情をしたので、ハッとして我に返った。ぼくはイエローモンキーのくせに「a-ha」とか「uh-huh」とか無意識に相槌を打っていたのだ。相手は相当気持ち悪かったに違いない。本当に穴があったら、寧ろブラジルまで掘りたいくらい恥ずかしかった。 このように、言語には脳のどこかに切り替えスイッチがあって、一旦オンにすると慣性の法則で走り続け、ある程度強い抵抗を加えなければ直ぐには機能停止しないシステムになっているらしい。車がブレーキを踏んでも直ぐには停まれないのと同じ理屈。 それは古文にも同じ事が言えて、その世界に常駐していると、「古文脳」で文章を考えるようになる。外国語に堪能な人が脳内で言語変換するのではなく、その外国語で直接モノを考えるのと基本的には同じだと思う。 ぼくは、源氏物語を1年余りかけてゆっくり読んだ。文庫版で、資料集を含めて全10巻。最初は一々、古語辞典を引いていたが、そのうち調べるのが面倒になり、物語の筋を追う事に専念し読み進めるうちに、段々意味が採れるようになっていった。 それから半年ばかり経ったある日、日記をつけている時に、「もしかして」と脳内電気が急に点り、古文で書いてみたら稚拙ながらも文章が綴れるようになっていた。 実は、ぼくはそれまで万葉集・古今和歌集・古事記・伊勢物語・土佐日記・枕草子・蜻蛉日記・徒然草・今昔物語・平家物語などは既に読了していた。源氏物語はぼくにとって謂わば、古典山脈の最高峰ともいうべき存在だった。 源氏物語を読んでいる頃は、ちょうど嵐山に住んでいて、環境としてはこれ以上ないシチュエーションだった。嵯峨野の竹林を通って野宮神社へ行ったり、旧街道を松尾大社へ抜けたり、格好の散歩道だった。仁和寺近くの小さなお寺にある吉田兼好の墓前に詣でたのもその頃だった。 その後、ぼくの興味は近世の古典、芭蕉などの俳句や近松、西鶴など心中物or町人物などに移り、極め付きの武士道「葉隠」に至る。新渡戸稲造の「武士道」は英文(原書)と日本語版の両方を読んだが、あれは例えばクリスチャンでもない文学者が聖書の解説書を書いた、みたいな本で彼の解釈による武士道に過ぎない。もっと言えば、水泳の教則本みたいなものだ。彼は武家の生まれだが、物心つく前に明治維新を迎えた。だから武士道の匂いくらいは嗅いだかも知れないが、外国暮らしが長く、キリスト教徒になり、夫人は外国人だった。そんな異教徒&売国奴に真の武士道が分かる筈がない、…とかね。 本当は新渡戸の「武士道」は基本書や入門書としては最適の本だと思う。一方、宮本武蔵の「五輪書」は関ヶ原前後の「どんな手を使っても勝てばいい」式の実戦的な剣術指南書みたいなもので、武蔵の哲学は一般の人のイメージする武士道とはかなりかけ離れている。 かなり話が脱線したが、以上のようにぼくの古典遍歴は古代・中世・近世と推移してきたので、一時、色んな時代の言葉使いが混雑していた。実は今もぼくの「古語」が何時代のものか自分自身でも判然としてはいない。紫式部や兼好法師がぼくの作文を見たら、首を傾げながらこう言うだろう。 「こは、如何なる国の言葉にて書きたる文にや」 善田 真琴
うぐいす
2012/03/23(Fri) 鶯は競争相手が多いほど美しく囀る。彼らにとって春は、子孫を残せるか否かの、生存を賭けた戦いの季節だ。暖かくなるにつれ、人差し指一本で鍵盤をつっ突くような地鳴きから、すべての指を使って流麗に奏でるピアノ曲みたいな求愛の唄へと、日増しに鳴き方が上手くなる。この住宅地にも色々な鳴き方をする様々な鳥たちがいて、他人の縄張りに踏み込んでつっ突かれたり、仲良く共存していたり。鳥にも孤独を好むタイプと集団行動をとるタイプがある。この辺も人間と似ていて、眺めていると中々に愉しい。 鳥の囀りには個体差があるが、それは個体自身の努力や創意工夫によるものではなく、本能というDNAによって書き込まれた指令に従っているに過ぎない。それが正しいとすれば、生物個々の未来は、遺伝子によって全て予定調和的に定まっている事になる。 では、人間もそれで良いのか。 時折、他者批判の詩を投稿掲示板で見かける。投稿者は、大概は感想掲示板を閉じていたり、私書箱にしている。反論されるのが嫌なのだろう。 人それぞれに育った環境や教育の差があるから、意見も十人十色で相容れないこともある。究極の争いは裁判だが、そこでの原則は攻撃と防御で、原告と被告それぞれにその両方の権利が両者に平等かつ同時に与えられる。しかし、裁判なら利害関係者や、その事件に関心がある人しか傍聴しない。中世の魔女狩りではないから、広場で見せしめのような野蛮なことは現代社会では行われない。 詩人の部屋で自分の意見を伝えたい場合、ぼくなら自分の部屋で呟く。それなら、ぼくに関係ある人か、ぼくにそれなりの関心がある人に限られるから、無関係なその他大勢を不愉快な気持ちにさせる危険も少なく、他人に自分の意見を押し付けることにもならない。 法律に触れない限り、詩人の部屋では何を書いて投稿してもいいと思う。しかし、その自由を享受するなら、それに必ず付随する義務も同時に負うべきだ。自分に不利な書き込みを後で証拠隠滅のように削除する人がいるが、自己保身の本能としては理解出来ても、それでは上に書いた鳥と同じ。鳥は2or3回首を振れば忘れるが、人間は証拠を消しても記憶している。一度書いた事は消えないのだ。だから、ぼくは相手から要請がない限り、如何に恥ずかしい書き込みであっても、相手のは勿論、自分の書いたコメントも絶対に消さない。それは自分自身に背中を向ける行為だから。それに傷は被うことなく空気に触れさせた方が早く乾き、治りも早い。「旅の恥は書き捨てない」それが自分の成長にも繋がる。 口論、議論大いに結構。 但し、公道でやられると 嫌でも目につく。 迷惑だから 体育館の裏でやれ。 善田 真琴
ひとり古語復活運動
2012/03/19(Mon) 【かたじけない】 (忝い・辱い) @恥ずかしい A身にしみてありがたい B恐れ多い 元来は、容貌の醜い意を表す語 (以上、広辞苑より) 以下は私見だが、「かたじ」は「片し」で、例えば「靴下の片しがない」のように使われるが、両方のうちの片方の意味ではないかと考えられる。 「かたじけない」は「片し気ない」で、対面した相手に向ける顔がないくらい恥ずかしい、というのが語源ではないか、と推測する。それが、自分には不相応で勿体ない程、相手の好意が有り難いという、感謝の気持ちを表す言葉へと発展したのではないか。 「ありがとう」は、「有り難き幸せ」と言うように、本来「あり得ない」と言う意味で、「想定外な好意への感謝」の意味合いが強いが、「かたじけない」には「相手に対する謙虚な気持ち」がより込められていて、「恥」の意識が底辺にある。 西欧の個人主義から観て、日本人には「個」の観念が薄いとされるが、そんな事はない。 例えば、英語の「thank you」は「think you」の転化で、相手の事を「考える」という意味しかなく、ベクトルはこちらから相手への一方通行である。それに対して、日本語の「ありがとう」や「かたじけない」は相手からこちらへ、こちらから相手へと気持ちが「行って来い」する双方向性のベクトルを語源的には有している。 つまり日本人には「個」がないのではなく、目の前にいる相手を常に意識した上での自分の「個」という存在がある、と言うだけの話である。 武士は戦さになると化粧をした、と「葉隠」という本にある。敵に首を獲られても無様な死に顔は見せない、という「恥」と「矜持」の文化がそこにはあり、「体面を保つ」という言葉だけでは足りない。それが日本流の「個」の意識であり、西欧流の個人主義ほど薄っぺらいものではないのである。何故なら、西欧のそれは他人や体制との単なる権利義務の関係に過ぎないから。 「かたじけない」は「ありがとう」より、もうひとつ滋味深く、守備範囲の広い言葉だ。形から入って中身は後から入れればいい。日常でも人に何かしてもらったら、軽い気持ちで「あ、かたじけない」と言ってみませんか。 最後に、読んでくれた人がいるなら、「かたじけない」。 善田 真琴
最近のぱみゅぱみゅな話
2012/03/18(Sun) 珈琲が好きで、仕事or休日にかかわらず、10cups per one day くらい飲む。 自宅では、粉のミルクと砂糖がそれぞれグリーンとブルーのフタが付いた透明なポットに入れてある。 先日、ポットの砂糖が切れたのでつぎ足した。砂糖は高級な奴ではなく、普通の上白糖だから、サラサラ感がない。 カンのいい人なら、すでにネタバレかも知れない。 数時間後、珈琲を淹れて一口飲んだ瞬間、ブハァ〜っと和室の畳の上に吹いた。 辛っ! 自分がそんなマンガのネタにもならない、粗忽モノみたいなミスを犯すとは。かなり驚いたし、やや凹んだ。 ま、ロシアのシベリア地方やサハリン当たりでは、体を暖める為に、ソルティー・コーヒーが当たり前ですけどね。 …ナイナイ。 善田 真琴
言葉の奥行
2012/03/17(Sat) 「いぬきが、雀の子を逃がしつる。伏籠の内に込めたりつるものを」 これは源氏物語の中で、若き光源氏が幼い若紫(後の紫上)を京都北山で、垣根越しに見初める場面で、若紫が泣きべそをかきながら言う台詞。「いぬき」とは若紫の乳母の子で若紫の遊び相手。 現代語訳すれば「いぬきちゃんが、雀の子を逃がしちゃったの。せっかく籠の中に入れてあったのに」となるが、訳すると何の面白みもない。しかし原文のまま暗唱を繰り返していると、じんわり味が染み渡ってくる。大和言葉の醍醐味だと言える。 【注】「伏籠」は「ふせご」と読み、中でお香を焚き、その上に被せた衣服に、匂いを移すために使われた竹で編んだ籠。それを庭先で鳥かご代わりに使っている。当時の風俗が偲ばれて面白い。 古語も含めて日本語は曖昧で科学的でないと言われるが、人間の情操自体が非科学的で数値化出来ない性質を持つ以上、それを映し採る言葉が科学的である筈もない。言葉=心象ではなく、言葉<心象だから、言語に科学性を求めること自体が非科学的と言える。人間の精神活動のフィールドなんて、そもそもファジーな境界ばかりだが、それでも無理矢理に突き詰めれば何某か答えは出る。 例えば、上の台詞の中の「伏籠の内に込めた」のは誰か。英語ならIとかmy servantとか主格が伴うはずだが、日本語には要らない。無くても問題ないか、容易に想像がつくからだ。言葉の懐の深さで言えば、寧ろ全てを語り尽くさない方が空間的に広がり、より豊かになるとも言える。その意味で言えば、現代日本語より古語の方に奥行きがある。古い言葉ほど言霊が深く豊かに宿っているように僕には感じられる。 ひとつ判りやすい例を挙げれば、ここ詩人の部屋でもよく使われる「言の葉」。単に「言葉」と言う時とは、「の」一字が入るだけで随分と趣が違ってくる。そのたった一文字が、万葉・古今以来の歴史と伝統によって裏打ちされて来た言葉の奥行の深さ・豊かさに繋がっているのだと思う。 善田 真琴
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