ホーム > 詩人の部屋 > 善田 真琴の部屋 > 日記

善田 真琴の日記

2012年04月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30





<< 前の月次の月 >>

日指定

プロフィール
詩人名 : 善田 真琴
詩人ID : maczenda

ワード検索

最新ログ

過去ログ

His story.
2012/04/04(Wed)

幕末の黒船来航以来、日本の危機感は暗雲の如く募っていった。鎖国政策を採っていたとは言え、それでもお隣の大国中国が英国を始めとする西欧列強に喰い物にされてゆく様子は伝わってくる。

太平洋戦争当時、アジアで植民地化されてなかったのは、タイと日本だけだった。ベトナム・カンボジア・ラオスはフランスの、ビルマ・インド・マレーシア、シンガポールは英国の、インドネシアはオランダの、フィリピンは米国のそれぞれ植民地だった。タイは利害対立を避けるための緩衝地帯として残されたに過ぎないから、弱肉強食の趨勢の中、自力で独立を保っていたのは日本しかなかった。

アヘン戦争以降、疲弊の極みだった中国を睨んで、北方の白熊が次を狙っていた。

シベリアを東へ東へ進んだロシアはベーリング海峡を渡り、北米に達するが、米国はアラスカをロシアから買い取ることで平和裡に事を治めた。そこでロシアは来た道を引き返し中国大陸に戻るが、南を見ると冬でも港として使えそうな入江がある。ここからロシアの南進政策が始まる。ロシアは勝手に中国東北部に鉄道を敷設し、いずれは朝鮮半島南端まで伸長する計画だった。そこまで来れば、あとは海を渡り日本へ行くしかない。

中国や朝鮮半島を押さえられると日本の存立も危なくなる。だから日露戦争(1904年)も自衛目的に始めた事であり、アジアの隣国を守るためでもあった。

後年、中国の辛亥革命(1911年)で御輿に担がれることになる孫文は、日露戦争で日本が勝利した時、中東にいて現地の人に「お前は日本人か?あのロシアを倒すなんて日本は凄いな」と話しかけられそうだ。余談になるが、孫文は日本で学び、結婚の披露宴を日本で開くほどの親日家だった。

多少横道に逸れたが、以上のような世界の流れの中で、ロシア(ソ連)の手を通じて赤化していった中国のように、朝鮮半島はいずれロシアの支配下に陥るか、共産主義化するかしかなかった。現に敗戦により日本が退くと、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮半島は南北に分断され、北はソ連・中国ラインの影響を受け続けることになった。

米国には先見の明がなかった。中国や朝鮮半島から日本を排除したことで後年、米国は日本が負っていた荷物を自ら背負うことになる。もし日本が負けてなければ、米国は朝鮮戦争やベトナム戦争で共産主義との泥沼の闘いに填り込まずに済んだだろう。そして朝鮮半島はふたつの国家に別れることもなかったかも知れない。

では、日本の朝鮮半島統治はどうだったのか。

欧米流の植民地政策であれば、単一の作物、例えば綿花・砂糖・ゴム・珈琲などに作付けを一本化し、現地住民を奴隷のように扱い搾取する。教育を施し余計な知識を与えると反抗するので、愚民化政策を採るのが普通である。日本はそんな事はしなかった。名前すらなかった農奴に姓名と戸籍を与えた。当時、朝鮮半島には小学校が200校しか無かったが、5000校に増やした。京城大学は日本の大阪大学や名古屋大学より先に作られている。港湾や橋梁、ダムなどインフラを整備した。北に建設された当時の水力発電所は、今も現役で稼働しているらしい。

李氏朝鮮時代、半島の人口は右肩下がりに減少していたが、日本統治の35年間に1300万の人口が2400万に、24才だった平均寿命が45才に伸びた。植民地として搾取し、安い労賃で激しい労働を課していたら、人口も平均寿命も下がるはずだが、寧ろ倍増に近い。これは、食糧生産性が向上したので、餓死者が少なくなり、衛生教育や医療受診機会の増加などで、傷病死が減った結果として、人口と平均寿命が着実に伸びたのである。この事実だけからしても、日本が朝鮮半島を植民地化しなかった事の証明になると思う。

半島の人々は「七奪」と言って、日本が彼らから7つのものを奪ったと主張する。例えばその筆頭に挙げられるのが、姓名や言語である。

創氏改名法を読めば、姓名を奪ったというのは、言い掛かりである事は直ぐに判明する。コリアの人々には元々、ファミリーネームがなく、結婚しても同一の姓を名乗らない。政府が行政サービスを提供しょうとする時、それでは困る。判りやすく例えると、子供手当てを支給しようとする場合、一戸当たりの子供の人数で計算されるので、夫婦が「別姓」だとダブる可能性があり、都合が悪い。だから、「創氏」とはファミリーネームを届けて下さい、という話に過ぎない。半年の周知期間を設けて、届け出がない場合はどちらか一方の本貫(金とか李など日本人が姓だと思っているもの)を戸籍登録します、という制度であって、日本名を名乗る事は飽くまでもオプションであり、強制ではない。選択肢として用意されたのは、コリアの人々が社会活動をする際に、日本名を名乗った方が有利な場合があったからである。

日本名への改名が強制ではなかった証拠に、コリア名のまま陸軍中将になった人や、国会議員になった人もいる。やや話が逸れるが当時、日本在住のコリア系の人々には選挙権があり、逆に朝鮮半島にいた日本人にはそれが無かったという事実を、ぼくは極く最近まで知らなかった。日本国内での選挙ポスターには、コリア系に限らず、日本人の候補者の名前にもハングルの振り仮名が併記されていたらしい。

以上のように、日本はコリアの人たちから名前を奪ってはいない。

それでは言葉についてはどうなのか。

選挙ポスターで少し触れたように、ハングルは禁止するどころか、普通に使われていたし、ハングル語の新聞が弾圧を受ける事もなかった。

それどころか、埃に埋もれ使われなくなっていたハングルを復活させたのは実は日本である。

李氏朝鮮末期の時代にはハングルは教養のある人間が使うものではないとされていた。実際、ハングル語で作品を書いた文学者が処刑されたりしていた。日本でも、奈良平安期まで貴族階級の教養は漢籍であり、日記なども漢文で書かれていた。漢字は真名と言い、ひらがなは仮名、つまり「仮」の表記方法だった。ハングルは日本における平仮名よりも低い扱いを受けていたのだろう。藤原道長は源氏物語の愛読者だったが、大っぴらに読むのではなく隠れファンだった。それでも日本では、平仮名が「弾圧」を受ける事はなかった。

日本は忘れ去られていたハングルを教育現場に取り入れ、教科書に日本語と共に併記し、教えた。

調べれば直ぐに判る嘘をなぜコリアの人々が声高に叫ぶのか、ぼくには理解出来ない。

あと、朝鮮半島の人々は、日本は「強制連行」をしたと非難する。これは「軍事徴用」の事で、コリア系の徴用は、ぼくの記憶によれば、戦争末期の1944年の9月から翌年3月までの半年間、250人前後に過ぎない。しかも、徴用は日本人であれば当然の義務であり、ぼくの祖父も軍事徴用され、サイパンで亡くなった。硫黄島では徴用された15才前後の子供たちが、食料自給のため農作業に従事した。コリア系の人々も、当時は日本人だったのだから、逆に平等に扱われたのだと言っていい。

徴兵に関しても、その義務がなかったコリア系の方からの要求が強かったという説もある。兵隊になれば三度の食事にあり付けるし、給料も貰える。当初は100名募集をかけると1000人単位、1000名には万単位で人が集まったらしい。

以上、褸褸書いてきたように、日本は朝鮮半島に対して、欧米がやった意味での植民地化は行っていない。現在、ハワイを米国の植民地だと非難する人間はいない。統治された側の痛みが判らないわけではないが、嘘に嘘を重ねて歴史を塗り替えるのは、民族としての品位や誇りを毀損する事に繋がる。それは日本も同じで、時代と共に新しい資料が発掘され、闇に葬られていた事実が明らかになるに連れて、自国の歴史も書き換えられ正されていかなければならないと思う。

善田 真琴

前日]   [善田 真琴の日記]   [翌日
- 詩人の部屋 -