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善田 真琴の日記

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詩人名 : 善田 真琴
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ジャパン&コリア合併話
2012/04/02(Mon)

いざ国作る李氏朝鮮
(1392年)
いや苦難の大韓帝国
(1897年)

ぼくは記憶力が弱いので、上のように、自分流の語呂合わせで、無理やり年号を覚えた。

以下、論文ではなく、単なる呟きだから、文献やネットで確認作業をせず、記憶だけを頼りに大まかな事だけを書く。

不景気の最中、倒産目前の小さな会社が、生き残りを賭けて大きな会社に吸収合併を申し出た。大きな会社は、それを受け容れたが、両方の会社に合併反対の社員が少なからずいた。大きな会社では「あんな小さな会社、お荷物になるだけで、うちには何のメリットもない」という声が聞かれた。一方、小さな会社には「うちの社風が完全に失われる」と激しく反対する社員たちがいた。結局は、トップ同士の合意によって、両社の合併が成立した。その後、会社は経営困難に陥り、再び2つの会社に別れた。すると、小さな会社の社員だった人たちが一斉に「あの合併は企業乗っ取りだった」と大声で非難を始めた。大きな会社の社員だった人の中にも「あれだけ激しく怒るのだから彼らの主張は事実なのだろう」と特に考える事もなく沈黙する人や、それを支持する人たちがたくさんいた。

合併と併合は、広辞苑によれば本来、同じ意味なのだが、併合という字面が悪人顔に見えるのは、ぼくの中では「韓国併合」のイメージが大きく作用していると思われる。歴史的事実からすれば、ぼくは「日本と朝鮮半島の合邦」の方が事実を反映した正しいネーミングだと思っている。

日本が一方的に朝鮮半島を侵略し、植民地化したと主張する人、またはそれを信じる人たちは、寧ろコリアの国民を侮辱している事になる。なぜなら、当時の彼らには、自国の国策決定のための「集合的意思」が無かったと主張するのと同じだからだ。半島合邦は国のトップ同士の合意による契約だった。そのトップを選んだのはコリアの人々自身ではないか。

ぼくは民主党を政権交代以前から支持した事がないが、如何に不平不満があっても、一旦決定された事項には国民として当然に従う。現在の日本にも、日米安保条約自体に反対する人はいるが、岸信介個人が勝手にやった事だから、無効だと主張する人はまずいない。しかし韓国では半島合邦当時の首相である李完用は今でも国賊扱いであり、従ってその政治決定も無効と考える人がほとんどだと思われる。

韓国では、李完用に限らず、「親日的」と目されると、何十年後の子孫の財産権さえ否定され、例えば土地&建物などが強制的に没収される。逆に、単なるテロリストや殺人鬼に過ぎない安重根や金九は愛国者や英雄として讃えられる。それが今の韓国の現実である。

日本と朝鮮半島の合邦は、「韓国併合に関する条約」を素直に読めば、韓国の皇帝からの申し出を日本の天皇が受ける、という形式になっているのが判る。当時の韓国の李完用首相にとっては苦渋の決断だったのは間違いない。その条約成立時の騒然とした雰囲気は、1960年の日米安保条約成立当時のそれを彷彿とさせる。前者は軍隊、後者は機動隊に守られながらの条約成立だった。合邦のための条約と安全保障のための条約を同列には語れないが、銃剣で脅しながらの条約締結と言うのはかなり感情的な表現で適当ではない。軍隊が出動しなければ、国民が暴徒化し、無駄に人命が害なわれただろう。当時の韓国には機動隊などというものが存在しないから、危険回避のために日本側の軍隊を活用したのは致し方ない。寧ろ韓国側は、その事に依って、日本を「盾」にし、悪者に仕立てることで、自らを守ったとも言える。首相は国を代表しており、その政治決定に依って一旦成立した事態や事項に、国民が従わないとすれば、それは最早、国家ですらない。

それならば、なぜ当時のコリアの指導者たちは、日本との合邦を望んだのだろうか?

ここに一つ参考になる事例がある。ぼくの記憶に間違いなければ、1881年にハワイのカラカウア王が、日本を訪問し明治天皇に拝謁した。日本は明治元年から既に移民を送っていた関係で、ハワイ王国とは親密な交流が続いていた。

カラカウア王の訪日の目的は、日本の連邦国になりたいという申し入れだった。自分の姪の王女と日本の皇族との縁組みも提案した。しかし、明治天皇は米国との対立を恐れて丁重にお断りした。その後、米国は1898年にハワイを併合し、植民地にした。カラカウア王の日本への申し入れは、ハワイの生き残りを賭けた苦渋の決断だった事を歴史が物語っている。

当時、朝鮮半島は、册封体制により清国の実質的な属国だった。朝鮮という国名すら清国に選んで貰い、日本で昭和や平成というような元号も、朝鮮王国は清国のものを使っていた。元号とは時の皇帝が国民や国土だけでなく、時間をも支配するというのが元々の意味だから、朝鮮半島は完全に清国のものだったのである。清国使節団が来る度に朝鮮国王は宮殿を出て迎恩門の前で、三拝九叩頭という儀式で出迎えた。国王自身が跪き、地面に頭を9回こすり付けてお辞儀をしたのだ。朝鮮国王は、清国の使節団より地位が低かったと言っても過言ではない。

日清戦争(1894年)を国会議員の辻本清美が侵略戦争だったと言うのを動画サイトで見て仰天した事がある。日清戦争の講和のための下関条約に一番最初に書かれている項目は、朝鮮の独立である。つまり、最重要課題として朝鮮の独立が挙げられているのであり、日清戦争は、日本が朝鮮のために闘った戦争である事は明白である。その証拠に、最初に書いた「いや苦難の大韓帝国」の1897年、つまり下関条約の2年後に朝鮮は独立国家になり、あの屈辱的な迎恩門を破壊し、その横に独立門を建てた。それは現在もソウル市内にあるが、韓国人のほとんどが、独立門の「独立」を清国からではなく、日本からの独立だと思っているらしい。その門に書かれている「独立門」の文字は、今尚、国賊と貶められているあの李完用首相の筆によるものだと言われている。

朝鮮は日本のお陰で中国の支配下から離れ、晴れて独立国となった。大韓帝国である。当時の日本の正式名称が大日本帝国。まったくのパクりではないか。

ハワイのカラカウア王と同じく、大韓帝国の李完用首相も、自国の生き残りを賭けて、日本を頼ったというのが、歴史的事実だと言える。

李氏朝鮮時代の末期に朝鮮半島を旅したイザベラ・バードという英国女性の「朝鮮紀行」という本を読めば、当時の朝鮮半島の様子を窺い知る事ができる。

それによれば、ソウル市内の民家には窓がなく、土壁に通気孔の丸い穴が開いているだけで、正面の壁を四角く切り取ったのが出入口であるが、そこから人が出てきたので、人が住む家だと判ったとか、人家の前には溝があり、糞尿が垂れ流し状態なので異臭を放っていたなど、人々の貧しい暮らしぶりが知れる。

ちなみに、それより数十年前の幕末の日本では、糞尿は肥料として売り買いの対象とされたため、江戸の町は異臭もなく清潔で、紙屑なども燃料として再利用されたので道にゴミ一つ落ちてなくて、綺麗だったことが、アーネスト・サトウなど外国人の日記に書いてある。

朝鮮半島の人々は、国民の5割を占めたと言われる王侯貴族と両班と呼ばれる官僚階級に搾取され尽くしていた。朝鮮には紙幣がなく、銅銭だけが流通していたが、それも鉛の含有量が多いため粗悪だった。これも両班たちが、差額を懐に収めたからだと言われる。

またソウル市内には個人商店は一軒もなく、商品売買は広場で開かれる青空市で行われ、一般の人々は物々交換が普通だった。

そんな状態だったから、国政を刷新しようとする運動が度々起こり、社会改革を目指す活動家も少なくなかったが、それらは悉く潰され処刑された。

金玉均もその一人。
彼は、明治維新のあとの日本の近代化を理想としてクーデターを起こすが、三日天下に終わり、日本に一旦逃げるが、朝鮮当局と清国の要求により身柄を送還されたあと、八つ裂きにされた上に、バラバラの死体を朝鮮半島各地で晒し者にされた。

名前は忘れたが、韓国南部にある伽耶大学の先生が、「もし日本による韓国併合がなければ、韓国はもっと早く発展しただろう、というのはまったく逆で、日本なしに韓国は独力では国内改革は出来なかっただろう」と述べているが、上に書いたような朝鮮半島の状況を裏打ちする言葉だと思う。

以上、要するに、日本は朝鮮半島を侵略などしていないということだ。

次は、日本は朝鮮半島を植民地にもしていない、ということについて書こうと思う。

善田 真琴

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