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緊急逃避
2011/11/18(Fri) 逃げないこと、そのものににつき、考えた。一般が言うその旨は、主に人が集まる場所にとどまることだ。群がる場所に真実ありといわんばかりに。まるで、過疎地にとどまる個人、怪しきというように。そもそも、逃げるやつは、交流そのもに抱く価値観が異なるのに。思えば、私の生活は逃げているだけで、なんにも挑戦しようとしないと一括されている。日常そのものが萎縮しているのも当然だ。いや、ここでは、萎縮させられていると、責任を他に帰属させるほうが正しいのかもしれない。しかしながら、集団生活は実に窮屈で息苦しい。居心地の悪さ。それこそが人間に課された宿命なんだと、また、それを一括する。理想の自分が消えない限り、それで納得するはずがないのに。それでも環境の責任にする屁理屈も、ここに来て限界だ。そう。私は理想の自分から逃げている。理想には、それなりの魅力を含んでいるからこそ惹かれるはずなのに、どうして逃げているのか。矛盾しないか。そもそも、理想ではないから逃げているんだと考えることも可能だが、それは違う。もしかすると、私は変人なのかもしれない。いや、ただの天の邪鬼である。基本的に私は逃げていることに間違いはない。何を根拠にか。それは誤解を避けようとしているからだ。誤解を恐れている。誤解に直面してもその解決法を考えないために逃げる。難しいの一言で一括して物事をいい加減に済ませる。私が逃げている原因を自覚したところで、逃げないことによる、その強みは何か考える。人と出会うというのはとてもリスクを伴うのだ。それは誤解や対立を生むからである。 そうか、それには価値がある。 ぶつかって、正そうとする力が溢れるからだ。 慎也
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