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言葉の奥行
2012/03/17(Sat) 「いぬきが、雀の子を逃がしつる。伏籠の内に込めたりつるものを」 これは源氏物語の中で、若き光源氏が幼い若紫(後の紫上)を京都北山で、垣根越しに見初める場面で、若紫が泣きべそをかきながら言う台詞。「いぬき」とは若紫の乳母の子で若紫の遊び相手。 現代語訳すれば「いぬきちゃんが、雀の子を逃がしちゃったの。せっかく籠の中に入れてあったのに」となるが、訳すると何の面白みもない。しかし原文のまま暗唱を繰り返していると、じんわり味が染み渡ってくる。大和言葉の醍醐味だと言える。 【注】「伏籠」は「ふせご」と読み、中でお香を焚き、その上に被せた衣服に、匂いを移すために使われた竹で編んだ籠。それを庭先で鳥かご代わりに使っている。当時の風俗が偲ばれて面白い。 古語も含めて日本語は曖昧で科学的でないと言われるが、人間の情操自体が非科学的で数値化出来ない性質を持つ以上、それを映し採る言葉が科学的である筈もない。言葉=心象ではなく、言葉<心象だから、言語に科学性を求めること自体が非科学的と言える。人間の精神活動のフィールドなんて、そもそもファジーな境界ばかりだが、それでも無理矢理に突き詰めれば何某か答えは出る。 例えば、上の台詞の中の「伏籠の内に込めた」のは誰か。英語ならIとかmy servantとか主格が伴うはずだが、日本語には要らない。無くても問題ないか、容易に想像がつくからだ。言葉の懐の深さで言えば、寧ろ全てを語り尽くさない方が空間的に広がり、より豊かになるとも言える。その意味で言えば、現代日本語より古語の方に奥行きがある。古い言葉ほど言霊が深く豊かに宿っているように僕には感じられる。 ひとつ判りやすい例を挙げれば、ここ詩人の部屋でもよく使われる「言の葉」。単に「言葉」と言う時とは、「の」一字が入るだけで随分と趣が違ってくる。そのたった一文字が、万葉・古今以来の歴史と伝統によって裏打ちされて来た言葉の奥行の深さ・豊かさに繋がっているのだと思う。 善田 真琴
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