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落下する夕方
2020/09/23(Wed) 令和2年某日、とあるシンガーソングライターがライブを行った。そのライブのセットリストは、江國香織の著『落下する夕方』に沿って組まれたものであった。 私はライブが終了したその週末、『落下する夕方』を購入した。内容は、主人公である梨果が元彼の健吾の恋敵・華子と同居をするというものである。 これだけ聞けば凄くドロドロしていそうなものだが、華子という女性はからっとした嫌味のない性格で、また、梨果も感じたままを受け入れるような寛容さがある。梨果は華子に嫌悪感を抱かなかった。そしてそんな自分を梨果が受け入れたことにより、この話は秋雨の夜のような、しっとりとした空気感を持つものになる。 そのシンガーソングライターは、恐らくは本の最後にある解説の言葉を借りたのだろうが、この話を「十五ヶ月間かけてゆっくりと失恋していく話」と表現した。だけど、私は違うように思う。この話には華子が重要な人物として描かれているはずなのに、それだと華子がいないような気がした。 私は「再生と崩壊と創造の物語」だと思った。華子という人物を通して新しい価値観を得て、そしてそれが突如なくなる。いわば「崩壊」である。 であれば、華子はあらゆる価値観の擬人化でしかないのかもしれない。華子は初めて会うのにずっと昔からそこにいるような自然さで他人の生活に入り込む女の子である。その不思議な魅力が梨果や健吾、勝矢、涼子と、登場人物を片っ端から虜にしていくのである。時にはそれは、華子本人をも疲れさせるほど。 そんな自然さで生活に入り込んでいるもの。少し大げさな比喩だが、例えばそれが生きる権利だとしよう。私たちは気がついた時には人は人を殺してはいけないことを知っている。人には生存権というものがあって、誰もそれを脅かすことはできない。生存権自体は小学校高学年頃から習うものだが、私たちは感覚的にその前からそれを知っていたのではないだろうか。それはきっと日々の報道とか友達との関わりとか、日常のどこかで知るのだが、これ!という瞬間は上手く思い出せない。 ところが、それがある日突然なくなる。なんてこと、想像できるだろうか。きっとその瞬間、世界は色を失わないほど現実味のないものなのではないか?世界は色を失わないほど……というのは、なんというか、色を失うということは、ショックを受けることだ。それはある種、そのショックを与えた出来事を肌で受け止めるということ。その逆の色を失わない……のは、ショックすらも感じないほど自分にとって現実味のないものとして胸に落ちるということ。どこかで生存権はまだここにあって、その前提で暮らしてしまう。そんなものが、華子にはある気がする。 ただ、この比喩を用いるにあたってひとつ疑問なのが、果たして終盤の梨果は華子の死を受け入れていなかったのか?ということだ。 受け入れているようにも、受け入れていないようにも見える。それは、作中で言っていた「華子の不在に慣れる」という感覚なのかもしれない。 そして梨果は最後にもう二度と恋をしないとわかっている健吾に迫る。それは、梨果にとってある種の儀式だったのかもしれない。最後に好きだった人に触れて、梨果は華子を失うという出来事から、また新たな物語を紡ぎ出す。 本当は、「再生と崩壊の物語」と表現しようと思った。でも、最後にまた始まるような余韻を残している。ならば、「再生と崩壊と再生」か?いやいや、最後に作り出されようとしているのは「再生」する依然に、また新しいものなのである。 先に、華子は価値観の擬人化だと言った。作り出された価値観が崩壊して、そしてまた作り出されるのは新たな価値観なのである。ならば、「崩壊と創造」か?いやいや、元来のものはそれとして、再び構築されていくものもある。例えば、梨果と健吾の関係。恐らく梨果と健吾は、また良き相談相手同士になるのではないか、と思う。同じ時間を共有した者として、情は抱きながらも二度と恋はしないのだろうけど。元あったものはそのままに、しかし新たな芽を育んでいく。 もう長くなるからこのへんにしておこう。 この話には、そんな深い意味はないのかもしれない。ただ、そんなことを思った一冊だった。 理恵
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